「バタヴィア港(3)」(2017年07月25日) 今のスンダクラパ港の西側の対岸はパサルイカンと呼ばれる地区であり、パサルイカンの 南縁をパキン通り(Jl.Pakin)が東西に走り、通りに沿って南側をカリパキン(Kali Pakin) という名の運河が流れている。パキン通りの東詰めは、スンダクラパ港のゲートからまっ すぐ南へ下ってくるクラプ通り(Jl.Kerapu)と更に南へ一路タマンファタヒラ(Taman Fata- hillah)を目指して下るトンコル通り(Jl.Tongkol)の三本の道路が形成する三叉路であり、 三叉路の少し西が橋になっている。 この橋の下こそが、ジャヤカルタの町に沿って海に流れ込むチリウン川の、その当時の河 口だった。つまり、そこに立ってハーフェンカナールに向かい、左手をパキン通りに添わ せながら両手を開いたその線が、当時の海岸線だったということだ。その海岸線は時の経 過と共に北へ北へと伸びて行って現在に至るというわけだが、それにしてもパキン通りと カリパキンの位置の不自然さに違和感を覚えるひとは、きっとわたしだけではないだろう。 クラプ通りとトンコル通りは百数十年もの歳月を経てきた道路で、地形に即した自然さが 感じられるのに比べて、パキン通りはいかにもとってつけたような雰囲気がにおい立って くる。パキン通りが作られたのは1930年代終わりごろであり、それ以前にあの場所を 東西に横切る大通りは存在していなかったのだ。おまけにカリパキンの運河が掘られたの は1981年のこと。運河が掘られたことの必然性はそれなりに存在しているし、同様に パキン通りが建設された必然性も個々にあったということだが、それらがひとつの整合性 のもとに造られたのでないという事情が、不自然な違和感を醸成している原因であるにち がいない。 1598年以来バンテンに買付人を置いて交易活動を行っていたオランダ人は、1611年 にパゲラン・ジャヤカルタ(Pangeran Jayakarta = ジャヤカルタ王子)ウィジャヤ・クラ マから許可を得てチリウン川東岸の湿地帯に貧相な建物を作り、ジャヤカルタでの交易活 動を開始した。VOCの十七人会はバンテンに駐在していたヤン・ピーテルスゾーン・ク ーンを1618年に新総督に任命したので、かれは1619年に前任者から引き継ぎを受 けて新総督の座に就いた。この新総督はビジネス競争が激しく且つ為政者による商業統制 の厳しいバンテンでの交易活動をジャヤカルタに移そうと考え、計画の実施に着手する。 VOCがジャヤカルタにはじめて建てたチリウン川東岸の貧相な建物ナッソーハイス(Nas- sau Huis)を強固な石造りの商館に改修し、更にマウリティウスハイス(Mauritius Huis) を増築してその周囲を頑丈な石の城壁で囲み、湿地帯の中に浮かぶ強力な要塞を建設した。 これが第一期カスティル(kastil = オランダ語kasteel)である。 そこへ、後追いのイギリス人がオランダ人を追い落とそうとしてジャヤカルタへやってき て、パゲラン・ジャヤカルタと手を組んでオランダ要塞への攻撃姿勢を強め、チリウン川 をはさんでVOCのカスティルと対峙する場所に頑丈な木造の商館を建設しはじめた。商 館建物の完成が近づくと大砲を設置し、砲口をカスティルに向けたからオランダ人は怒り 心頭に発した。そんな至近距離から砲弾を撃ち込まれてはたまらない。 その年12月、カスティル勢は川をおし渡って完成間近いイギリス商館を急襲し、建物を 灰にしてしまった。そのイギリス商館が建てられた場所というのは、後のバタヴィア時代 にVOC造船所が設けられた地点に当たる。[ 続く ] 「バタヴィア港」の全編は
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