「バタヴィア港(4)」(2017年08月02日)

1628年と1629年にマタラム王国のスルタン・アグン(Sultan Agung)がオランダ人
に奪われたバタヴィアに向けて二回の軍事遠征を行ったものの、ロジスティクスの失敗や
疫病のために兵士たちがバタバタと病に倒れるといった事情が災いして、強固な城壁に囲
まれたバタヴィアの征服は実現しなかった。

そんなジャワからの大軍を迎え撃たなければならなくなったVOCは1627年にバタヴ
ィアの防衛能力を格段に高める対策を余儀なくされた。クーン総督は第一期カスティルを、
そのほとんど同じ場所で規模を何倍にも拡張した要塞に建て直したのである。それが第二
期カスティルだ。


その第二期カスティルが建てられていた跡は、地図の上からなぞるほうがわかりやすい。
ジャカルタ北部の地図を見ると、まずカリブサールの東側にカリチリウン(Kali Ciliwung)
がほぼそれと並行して流れていることに気が付くにちがいない。カリチリウンは北上して
ロダンラヤ通り(Jl.Lodan Raya)に近付いてから西側に傾きを深めて2百数十メートル直
進し、再び傾きを元に戻して北に2百メートルほど流れた後、直角に流れを変えて上で指
摘したクラプ〜パキン〜トンコル通り三叉路の橋に向かって流れていく。オランダ人がや
ってきてカスティルを建設したころの海岸線がどこにあったのか、これはその仮説を支え
る傍証のひとつでもあるにちがいない。

さて、そのカリブサールとカリチリウンが形成している四辺形が、われわれの想像の目の
中に見えてきた。南縁がどこにあるのかははっきりしないものの、正四辺形をそこに描く
のはむつかしくない。そう、その四辺形いっぱいにクーン総督が改修させた第二期カステ
ィルが建っていたようだ。

ヨーロッパの要塞、つまり城は周囲を堀つまり濠で囲まれているスタイルが伝統パターン
のひとつでもある。水の豊富なバタヴィアのカスティルも当然のようにそのパターンが踏
襲された。つまりカスティルの南側にも濠が造られていたのである。カリルアルベンテン
(Kali Luar Benteng)という名の濠がその正四辺形のカスティルの南縁をなし、カリブサ
ールとカリチリウンおよび海岸線で四周を囲まれた第二期カスティルの全貌が、こうして
浮かび上がって来た。

カリルアルベンテンは1936年に埋め立てられてしまい、現在のような地形に変化した。
実に奇妙に感じられる事実としては、もともとチリウン川の本流だったものが改修されて
カリブサールとその名を変え、カスティルの濠とするためにチリウン川の支流が作られて
オランダ時代にはスターツバイテンフラフツ(Stadsbuitengracht)と呼ばれていた水路が、
今ではカリチリウンとしてチリウン川の名を冠しているということがあげられるにちがい
ない。

その第二期カスティルも、今では跡形もない。イギリス軍のジャワ島進攻に備えて種々の
作戦計画を立てた第三十六代総督のダンデルス(Dandaels)が「イギリス人に奪われてかれ
らの防衛力を高めるよりは・・・」という判断を下して、バタヴィア防衛上の要衝である
カスティルとバタヴィアの市街を取り巻く城壁を1808年に取り壊してしまったためだ。
取り壊されたあとのカスティルはしばらくそのまま放置されていたが、1835年になっ
て残骸は取り片づけられ、きれいに整地されてカスティル広場(Kasteelplein)に姿を変え
た。だがすでに南に向かって発展していったバタヴィアの街はウエルトフレーデンを中心
とすら新たなアップタウンが確立されていて、カスティル広場の有用度は高まらなかった
にちがいない。[ 続く ]


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