「パサルバルの中古カメラセンター(上)」(2017年08月03日)

チリウン川がイスティクラルモスクの東側を北上してからジュアンダ通り東詰めの橋の下
をくぐったあと、いきなり北東に向きを変えてチリウン運河となり、850メートルほど
直進してグヌンサハリ通りにぶつかってから通り沿いにふたたび北上し、アンチョルに向
かう。

そのチリウン運河の500メートルほど北側をほぼ平行してキヤイハジサマンフディ通り
(Jl.KH Samanhudi)が東西に走っている。その中央部を運河からサマンフディ通りまで直
線で結んでいる通りがパサルバル(Pasar Baru)だ。

パサルバル商店街がオープンしたのは1820年のことで、オランダ植民地時代とはいえ
名称はローカル言語がそのまま使われたものの、綴りはPasser Baroeと表記された。レイ
スウェイク(Rijswijk、今のJl.Veteran)一帯に住むオランダ人向けのショッピング街とい
うのが、この商店街が設けられた目的だった。

衣と住の需要を満たすための商品を主体にしたこの商店街には家具屋から履物そして繊維
製品と仕立て屋なども軒を連ね、パサルバルでのインド人の反物とテイラービジネスは独
立後も長期にわたってメッカの様相を呈していた。しかし廉価縫製品が世を席巻する時代
が始まってこのかた、テイラービジネスが影をひそめてしまったのは、インドネシアも例
外でない。おかげでインド人たちは商売替えを余儀なくされてしまったようだ。


パサルバルの表門はチリウン運河の南を走るポス通り(Jl.Pos)の中ほどにある大きな橋だ。
道路の向こう側には植民地時代に建てられたグドゥンクスニアン(Gedung Kesenian)やグ
ドゥンフィラテリ(Gedung Filateli)が並んでおり、古き良き植民地時代の息吹を感じさ
せてくれる。

グドゥンクスニアンはダンデルス総督が演劇シアターの建設を命じたのが発端で、建設途
中にオランダ領東インドがイギリスに占領されたため、スタンフォード・ラッフルズがそ
れを完成させたといういわくつきの建物で、この劇場は最初にイギリス人が使ったという
故事来歴になっている。当初はウェルテフレイデン劇場(Schouwburg Weltevreden)と呼ば
れていたそうだが、gedung komediという別称も持っていたらしい。

グドゥンフィラテリは19世紀半ばごろに郵便電報電話を取り扱うバタヴィアの通信セン
ター機関として設けられたもので、独立後も中央郵便局として機能していたが、今では切
手収集に関するサービスセンターに特化したようだ。


表門から入って商店街のまっすぐな通りを5百メートルほど進んで行くと、サマンフディ
通りに面した巨大な商業ビルが立ちはだかっている。手前のハルコパサルバル(Harco Pa-
sar Baru)とサマンフディ通りを超えた向こう側のメトロアトムプラザ(Metro Atom Plaza)
は歩道橋でつながっており、買物しながら対岸まで移動できるという楽しみもある。

実はこのふたつの商業ビルが、ジャカルタの写真愛好家にとってメッカのひとつになって
いるのだ。最新型デジカメから骨とう品的なオールドファッションカメラまで、そしてフ
ォトグラフィのさまざまなアクセサリー類や消耗品に至るまで、探し物のある愛好家たち
はたいていここへやってくる。

言うまでもなく、フォトグラフィ商品だけがお目当てなら、サマンフディ通り側から直接
ここへやってくればよい。パサルバル商店街を抜けてくる必要はないということだ。
[ 続く ]