「バタヴィア港(7)」(2017年08月07日)

1511年にマラッカを征服したポルトガル人は、そこを根拠地としてアジア海域の通商
支配に向かう。言うまでもなくスパイス貿易がその中での目玉になってはいたが、決して
スパイスを本国に運び込むことだけを目的にしていたわけではない。ヨーロッパで高く売
れるアジアの珍品を本国に運ぶことも、そしてアジアのある国で仕入れた物品がアジアの
別の国の港で高く売れるのであれば当然、その取引に精力を注いだ。眼前に横たわってい
る富をわざわざ見逃す手はないということだ。


スンダと呼ばれるジャワ島西部地方には、昔からスンダ族が作った王国が存在していた。
だがスマトラ島のスリウィジャヤ(Sriwijaya)王国の勢力が伸びてくればその支配に降り、
東ジャワのマジャパヒッ(Majapahit)王国が攻勢に出てくればそれを宗主に仰ぐといった、
覇権にあまり縁のない穏やかな王国として長い歴史を生き延びてきたようだ。

ところが15世紀末になって新たに勃興してきたイスラム王国がヒンドゥ=ブッダ王国の
マジャパヒッを滅ぼしてジャワ島のイスラム化を推進しはじめたことから、ジャワ島西部
に確固たる地盤を維持してきたヒンドゥ=ブッダ勢力であるスンダ王国はイスラム勢に直
接対峙しなければならなくなる。

王国の東端にあってイスラム勢と境を接するチマヌッ(Cimanuk 今のインドラマユ)の町
には、16世紀に入るとイスラム教徒が目立って増加してきたし、スンダの諸港を訪れる
ジャワの商船に乗っているのはムスリムがメインを占め、そのような人的接触によって領
民への影響が広まっていくのを完全にシャットアウトできるものでもなかった。

このスンダ王国は北岸部にバンテン、カラパあるいはスンダクラパ、ポンタン(Pontang)、
チグデ(Cigede)、タムガラ(Tamgara)、チマヌッなどの港を持ち、ポルトガルに征服され
る前のマラッカ繁栄期にはマラッカ海峡を通過する幹線交易路の分流を受け入れ、またマ
ラッカで消費されるコメ・肉・魚・野菜・果実などの食糧ならびに国際交易品であるコシ
ョウや奴隷の輸出も行っていた。それらスンダ諸港の筆頭はバンテンだったようで、バン
テンは輸出基地であるとともに海運業センターとして栄えていた。

マラッカを奪い取ったポルトガル人は、マラッカに集まってきていた通商航路を維持させ
ることに努め、イスラム勢の矢面に立たされたスンダ王国とは特に軍事協定を結んで共通
の敵に対決する姿勢を示した。マラッカ現地司令官(Capit?o-mor)のジョルジ・ダルブケ
ルケ(Jorge de Albuquerque)はエンリケ・レメ(Henrique Leme)を代表者とする使節団を
カラパへ派遣して1522年8月21日に協定の調印を行なわせ、またチリウン川河口東
岸に協定内容を記した石碑を建てさせた。バンテンでなくカラパが協定調印の場に選ばれ
たのは、カラパのほうがスンダの王都に近い距離にあったことと、そして時のスンダ王で
あるプラブ・スラウィセサ(Prabu Surawisesa)が王位に就く前に今のジャティヌガラから
チリウン川河口一帯の領主であったという事情が関わっていたようだ。トメ・ピレス(Tom? 
Pires)の旅行記には、スンダの王都はカラパの港から二日の行程だったと記されている。

スンダ王国にとって、バンテンはもっとも繁栄する商港であり、政治的にはカラパが重要
な港という立場に置かれていたと理解することができそうだ。


ところが、スンダ王国がポルトガル人と結んだ協定が、イスラム勢力のトップにいたドゥ
マッ王国(Kesultanan Demak)を強く刺激した。王国第三代目のスルタン・トランゴノ
(Tranggono アルファベット綴りではTrenggono, Trangganaなどさまざま)は妹婿のファ
タヒラ(Fatahillah)に命じて、スンダ王国とポルトガル人の合作を分断する作戦に出た。

マラッカからやってくるポルトガル人と西ジャワ内陸部のスンダ王国の接触を阻むために
海岸部を占領すること、つまりバンテンとカラパというスンダ王国の二大港を奪取するこ
とである。[ 続く ]


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