「法則化できない畳語」(2017年08月08日) ライター: 元シガラジャ国立師範学校芸術教育言語教授、スナルヨノ・バスキ KS ソース: 2013年10月5日付けコンパス紙 "Mobil-mobilan dan Buah-buahan" インドネシア語における畳語、つまり繰り返し言葉はさまざまな語義を作り出すので、注 目に値する。KBBIによれば、「buah-buahan」は「buah tiruan」を意味するばかりか、 「berbagai-bagai buah」の意味にもなる。形は似ていても、「sayur-sayuran」は同一の グループに区分することができない。なぜなら「sayur」を繰り返しても「sayur tiruan」 の意味は出てこないからだ。さまざまな「sayur」を表現する場合、「sayur-sayuran」と いう言葉も使われてはいるが、われわれは「sayur-mayur」という言葉を使う。 語義や用法の狭いものとしては、その繰り返しが「tiruan」だけを意味する「mobil- mobilan」や「rumah-rumahan」をあげることができる。それらの語義は「tiruan mobil」 であり、「tiruan rumah」なのだ。「pistol-pistolan」も同様で、昨今深夜まで開いて いるミニマーケットを襲う強盗が使っているおもちゃのピストルがその語義だ。「judul- judulan」という言葉が歌詞に使われている歌を覚えているだろうか?その意味はきっと 「tiruan judul」あるいは「judul asal-asalan」に間違いあるまい。 つまりわれわれは名詞の畳語が必ず「tiruan」や「buatan」を意味するという一般法則 を定めるわけにいかないのである。 動詞の畳語は多分、もっとシンプルでより秩序だった法則に従っているかもしれない。 動詞「balas」が繰り返されて「balas-berbalas」となれば、その意味は「balas- membalas」であり、また「berbalas-balasan」という「bersahut-sahutan」や「berjawab- jawaban」と同じような意味をも表すことになる。 形容詞・副詞・数詞・パーティクル・代名詞について言えば、それらは畳語を持たない。 「berakal, cerdik, pandai」を意味する形容詞「akil」が形容詞「balig」と組み合わさ ると「tahu membedakan baik dan buruk」の意味になるが、意味が「tiruan」に変化する ような形容詞の畳語の例をわたしは見つけることができない。形容詞「basah」が繰り返 されて「berbasah-basah」となると「sengaja membuat diri basah」あるいは「basah kuyup」の意味になる。一方、「kebasah-basahan」は「dalam tanahnya subur dan kebasah-basahan」の例文が示すように、「agak basah」の意味になる。 形容詞「haru」は何かを見たり聞いたりした結果の「rawan hati」という語義を持つが、 動詞としての「haru」は「kacau」を意味している。「haru biru」は「kerusuhan, keri- butan, kekacauan, huru hara」の意味だ。「mengharubirukan」は「mengacaukan」を、 「pikirannya terharu biru oleh peristiwa yang baru dialaminya」の例文が示すよう に「terharu-biru」は「terkacaukan」を意味している。しかし「haruan」という単語に 戸惑ってはいけない。「haru」とは何の関係も持っていないからだ。KBBIによれば 「haruan]とは淡水に棲む雷魚のことだそうだ。その焼き魚はきっと美味で有用であるに ちがいない。 インドネシア語における畳語についてもっと深く調べて行けば、われわれの言語が持って いる興味深い事実を発見できるにちがいない。だが残念なことに、わが国の文学者たちは それを深く掘り下げることにあまり熱心でない。多分レミ・シラドがその作品の中で言葉 を造形するのにもっとも秀でているようだ。かれが文学カテゴリーでアフマッ・バクリ賞 を受けたのも当然だろう。