「バタヴィア港(9)」(2017年08月09日)

バンテン湾からポンタン海岸にかけてのエリアは高温少雨であり、チバンテン川(Sungai 
Cibanten)も落差が小さいために水流は緩く、水はよどんでいる。水の入手に困難を抱え
ていたバンテン王国は、そのための大規模な対策を講じてきた。その結果、水田も増加し、
また広大なコショウ畑が開かれて国際交易品のコショウが大量に供給されるようになり、
バンテン港は一大開港場として繁栄を謳歌するようになる。コショウ供給を増加させるた
めにバンテン王国はスンダ海峡を越えてランプン(Lampung)地方まで攻め込み、ランプン
を支配下に置いてコショウをバンテン市場に集めることまでした。

バンテンの発展はマラッカの盛衰に多くを負っている。マラッカがポルトガルに奪われて
からというもの、イスラム勢力がマラッカ海峡の通過を避けるようになったため、この南
洋地域での交易路はマラッカ海峡からスンダ海峡にとって替わられることになった。ジャ
ワ海からスンダ海峡を抜けてインド洋東岸部を通る航路が幹線と化すようになる。スンダ
海峡の東口に位置するバンテンにとって、それは願ってもない幸運だった。バンテンのコ
ショウ取引はうなぎのぼりに上昇して行った。


オランダ人がこの南洋にはじめてやってきたのは、ウィジャヤ・クラマがジャヤカルタの
領主となった1596年のことだ。

そもそもオランダ人がはるか南洋のジャワ島西部北岸地域にまで航海してきたのは、当時
オランダが置かれていた情勢に押し流されてのことだった。そのころオランダ人は支配者
であるスペインからの独立をはかって闘争を続けており、スペインはオランダの経済力を
弱めようとしてオランダ海運のリスボン入港を禁止した。ポルトガル船が南洋から持ち帰
ってくるコショウその他のスパイス類をリスボンからヨーロッパ北部に運搬していたオラ
ンダ海運が、その流通ルートの根元をわが手に握ろうと考えるのは当然の成り行きだろう。
そうすることによって反対にスペインの経済力が打撃を受ければ、オランダの国家規模で
のメリットが増大するのである。

オランダ商業資本が企画した南洋航海で、コルネリス・ド・ハウトマン(Cornelis de 
Houtman)率いる4隻の船隊がテセル(Texel)港を1595年4月に出帆した。喜望峰を超
えてから、一行はポルトガル船を避けるためにマダガスカル島北部からまっすぐスンダ海
峡を目指す、大胆でリスクの高い航路を採った。6千キロのインド洋横断行だ。そして砲
20門を装備した230トンの新鋭船ホランディア(Hollandia)号とアムステルダム号、
マウリティウス号、ダイフケン(Duyfken)号のオランダ船4隻は1596年6月23日、
念願のバンテンに到着したのである。

ハウトマン遠征隊はバンテンで当初穏やかに交易しようとしたが、取引はあまりうまく進
まず、荷はそれほど集まらなかった。あせった一行は略奪などの手荒な手段を取り始め、
挙句の果てに暴力事件を起こしてバンテン当局に捕らえられ、身代金を支払って釈放され
るという事件まで引き起こしている。ところが一説によれば、その暴力沙汰は商品をめぐ
ってのものでなく、バンテン王宮が最新鋭の船を手に入れたいがために一行を毒殺しようと
して狡猾な罠をしかけたために、かれらが怒って暴れたのだという話もある。ことの真偽
とは無関係に、バンテンではオランダ人ハウトマンの悪評だけが残った。[ 続く ]


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