「バタヴィア港(10)」(2017年08月10日)

6カ月近いバンテンでの滞在を切り上げると、ハウトマン船隊は12月13日に東に向か
い、ジャヤカルタに入港した。するとシャバンダル(shahbandar 港務長官)がホランディ
ア号を訪れ、ヨーロッパ人とのコミュニケーション言語となった卑俗化したポルトガル語
で告げた。
「バンテンから連絡があり、遺憾ながら、貴殿らの到着を見た住民は家財道具を持って避
難した。上陸しても何もない。」

二人の水夫が町の様子を見るために上陸するのを許された。確かに町中はがらんとして人
影がない。

ハウトマン一行はバンテンでの行跡を繰り返すまいと自戒していたから、一行の穏やかな
様子を見た住民の中に「オランダ人はバンテンが言うほど悪辣ではなくたいした危険もな
い」と考える者たちが三々五々家に戻り、食糧をオランダ船に売りに行きはじめた。一行
は5日間滞在してから出帆することにした。すると出港する前に領主と重臣たちが町に戻
ってきて、オランダ船を見学したい、と船に乗り込んできた。オランダ人一行を怖がって
いた住民も、オランダ人が去るというニュースを聞いて安心し、町に戻って来たから、ハ
ウトマンたちはやっとジャヤカルタの普段の様子を目にすることができた。ジャヤカルタ
では、ハウトマン一行の評判は決して悪いものでなかった。

ハウトマン船隊はさらに東ジャワの港を訪れて交易を求めたものの、やはりニュートラル
な姿勢での取引はうまく進展せず、結局また略奪が繰り返されている。最後の寄港地とな
ったバリ島では、一行は悪事をはたらかなかったようだ。

このようにして史上初の壮挙となったオランダ船隊の南洋周航は成し遂げられたが、かれ
らの持ち帰った積荷は決して満足できる量でなかった。コショウ245袋、ナツメッグ4
5トン、メース30バアルというかれらの収穫のほとんどは略奪で手に入れたものだった。
この航海は29万ギルダーの投資で行われ、スパイス・宝石・珍品などの商品を手に入れ
るために10万ギルダーが費やされ、結果として8万7千ギルダーの利益を生んだ。

船隊は1597年の夏にテセルに帰還したが、戻った船隊はアムステルダム号を欠いた3
隻になっており、また故国に帰れた乗組員の数も89人しかいなかった。このオランダ初
の南洋航海は、それでも大成功と評価され、オランダに一大投機ブームが巻き起こった。


ハウトマンに続く成功者となったのは、1598年初頭に出発して1599年に帰国した
ヤコブ・ファン・ネック(Jacob van Neck)の遠征隊で、この遠征隊は400%の利益をあ
げることができた。ヤコブ・ファン・ネックは三隻の快速船で南洋に先行し、ハウトマン
と同じルートを経て6カ月後にバンテンに到着した。そのバックアップとしてウィブラン
ド・ファン・ワールウェイク(Wybrand van Warwyck)率いる5隻の船隊が後続した。この
8隻による大遠征を企画したのは旧会社(Oude Compagnie)と呼ばれる商業資本の会社で、
1594年に9人のオランダ商人が設立した遠国会社(Compagnie van Verre)と1597
年末に設立された新航海会社(Compagnie van de Vaerte)が合併したものだ。

先行した快速船三隻はポルトガルと交戦していたバンテン王国に支援の手を差し伸べたた
め、バンテン王国側はそれを謝してヤコブ・ファン・ネックに大量のコショウを買うこと
を許した。この遠征隊が巨大な利益をあげることができたのは、そのような偶然が関わっ
ている。後続の5隻の船隊が到着すると、8隻は二分されて大量のコショウをオランダに
運ぶ隊と、マルク地方に向かう隊に別れた。マルクに向かった船隊はテルナーテ(Ternate)
に商館を建ててから帰国した。1600年までに8隻のすべてが一隻も欠けることなく帰
還できたそうだ。[ 続く ]


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