「デンパサルの散髪業」(2017年08月10日)

バリ人は一般的に、全身の中で頭がもっとも神聖な部位であると信じている。だからバリ
人の頭に触れたり、あるいは頭をつかんだりするのはタブーだと考えるほうが無難だ。幼
児の頭をなでるのは親愛の表現と一般に理解されているものの、見知らぬひとにそのよう
なことをされるのを嫌がる親がいる。かれらはそれを失礼なふるまいだと見なしている。

実際にわたしはバリガレリアのデパート内で、そんなできごとを目撃したことがある。バ
リ人の父親が幼児を抱いてエスカレータで二階に上がって来た時、たまたまそこを通りか
かった夫婦連れの白人の奥さんのほうが、にこにこしながらその幼児の頭をなでたのであ
る。そのときの父親のぶすっとした不愉快そうな顔は、きわめて印象的だった。父親はい
そいそとその夫婦連れに背を向けて歩き去った。

このタブーはもちろん東南アジア一円に広まっていたから、バリだけがそうだと言うのは
当たるまい。ジャワでもそうだし、タイでもそうだ。しかし文明文化の進歩というのは、
西欧化を意味している。西欧社会にそのようなタブーはもうないのだから、西欧化が自分
たちの生きる道だと考えるヤング層にそんな伝統が受け継がれるはずもない。

バリ島だけを見てインドネシア全土を推し量るのは無理がある。ジャワ島では既にそのタ
ブーは老年層の中に押しやられているし、バリ島がそのあとを追うのも確実だ。実はすで
にその先駆けが始まっているのである。


バリの男性にとって、自分の神聖な頭を他人が触りまくるような状況を容認できるはずが
ない。ましてやその他人というのは卑賎な職人なのであり、高位高貴な神に近いお方では
ないのだ。その結果、頭髪を刈る床屋、いわゆる散髪業が世の中でどのような位置づけに
置かれるかは、想像にあまりあるにちがいない。

反対に床屋職人も、他人の神聖な頭に触ることを社会がタブーにしているのだから、その
禁忌を破って他人の頭に触るのが怖い。ましてや高位高貴なお方の頭に触れるなど、とて
もできることではないのだ。精神は委縮し、全身は硬直してしまうだろう。それで腕がふ
るえるわけがない。


今デンパサルには、バーバーショップが増加している。代表格はヴェガス(Vegas)バーバ
ーショップ。2014年半ば以来、デンパサル市内に6軒の店を出し、一番はやっている
店では5人の職人が一日に60人の頭を刈る。

客は自分のヘアスタイルがお気に召すようにあれこれ注文をつけるが、たいていは相談す
る形をとる。職人は客の顔と頭の形によく似合うスタイルを想定しながら、客の相談にあ
わせて散髪していく。洗髪とマッサージ、そして仕上がりに高価なポマードを塗ってスタ
イルを決めてくれる。料金はそれら一切を含んでひとり4万5千ルピア。

このヴェガスバーバーショップの事業主は弱冠25歳のバグス・ブラマンタ氏。かれがこ
の事業を始めたのは、自分の個人体験が強い動機になっている。かれは自分のヘアスタイ
ルを決めるのに、かつては美容院へ行っていた。だが女性美容師に注文して作ってもらう
ヘアスタイルはどうも一味違う。おまけに美容院の中にいる男は自分一人だけだ。バリ人
のひとりとして、そんな状況はどうも気恥ずかしい。同じ思いをしている男性はきっとほ
かにもいるはずだ。

こうしてかれは男性向けの散髪業をスタートさせ、それが当たった。6カ所の店には多数
の職人が働いている。採用基準は男性であることのほかにヘアーカットと頭髪手入れの養
成講座を修了した証明書を持っていること。雇用された職人たちには月給とインセンティ
ブとしてのボーナス、そして6つの色違いの制服が与えられる。折々に制服の色を変える
ことで、客に新鮮感を与えるのが目的だ。店内はエアコン完備にモダンな室内デザイン、
フリーワイファイに順番待ち客のためのテレビ。職人たちはだいたい客ひとりに25分程
度の時間をかける。こうしてヴェガスバーバーショップには学校生徒・大学生・青年アン
トレプルヌール・高官職者までやってくるようになった。


もちろんこの業界がヴェガスの独占になっているわけではない。チガノスという看板を掲
げた別のバーバーショップもデンパサル市内にある。この店はヴェガスと類似のサービス
で料金はひとり4万ルピア。子供ならひとり2万5千ルピアだ。

45歳の店主デッ・レス氏は毎日150枚の衛生処理したタオルを用意する。そのタオル
は平均して客一人に4枚使用する。だから、残量が4枚を切ったら、その日は店じまい。
店主は神経質なほど清潔さと衛生に気を遣っている。カミソリも櫛も、前の客に使ったも
のをまた使うようなことはしない。この店にもフリーワイファイサービスがあり、そして
冷えた飲み物を無料で客にサービスしている。

バーバーショップが増加してポマードの需要が伸びあがってくると、その商機をつかんで
ポマード生産を開始するバリ青年がいた。高くとも高品質なら売れるという側面をバリの
市場は持っている。かれはプレミアムクオリティのポマードを作り、一瓶14万ルピアで
デンパサルに林立し始めた数十店のバーバーショップに卸を開始したのだ。この事業はか
れに毎月数千万ルピアの売上をもたらしている。