「バタヴィア港(11)」(2017年08月11日)

旧会社は1600年までに南洋に向けて遠征隊を、ヤコブ・ファン・ネックのものを含め
て四回送り出している。旧会社はイサアク・ル・メール(Isaac Le Maire)が興したブラバ
ント会社(Brabantsche Compagnie)と1600年に合併してアムステルダム東インド会社
と名を変え、アムステルダム市当局から東インド貿易の独占権を与えられた。類似の状況
はオランダの各港にも波及して、東インド貿易独占権を持つ会社が林立するようになり、
各港から続々と遠征隊が南洋に向かって出帆し、スパイス類を持ち帰ってくるようになる。

そのような状況が市場価格を混乱させることになるのは言うまでもあるまい。最終的に行
政が介入してそれらの諸会社をひとつにまとめた国策会社「連合東インド会社」
(Vereenigde Oostindische Compagnie)が1602年3月に設立された。

つまり、ハウトマンによるオランダ人の南洋初航海が行われたとき、VOC(オランダ東
インド会社)はまだ存在していなかったのであり、1602年より前にバンテンやテルナ
ーテで手に入れたオランダ商館建設許可も、オランダ東インド会社に与えられたものでは
なかったということなのである。だから、イギリス、オランダ、フランスなどの東インド
会社設立年だけを比較して、どの国が出遅れたなどという評価を下すのは皮相のかぎりだ
ということが言えそうだ。


ちなみにこのVOCはそれ以前にあった6つの会社が合併したものであり、各会社はVO
Cの支部として存続し続けた。カーメル(kamer インドネシア語化してkamarとなった)と
呼ばれたその支部はアムステルダム、エンクハイゼン、ホールン、ロッテルダム、デルフ
ト、ミッデルブルフ別名ゼーラントにあった。取締役会も最初は各カーメル会社の取締役
が全員参加したため73人で構成され、定員の60人になるまで自然減耗にまかせられた。

取締役会の上に重役会である十七人会(Heeren XVII)が置かれ、各カーメル会社の出資比
率に応じてアムステルダム8人、ゼーラント4人、他のカーメルからひとりずつ、そして
アムステルダム以外のカーメルから輪番でひとり、というメンバー構成になっていた。会
議は年三回開かれ、開催地は持ち回りと決められたものの、圧倒的に有力なアムステルダ
ムがVOCを牛耳るような形ですべてが回転していたようだ。

東インドには現地での活動と管理のトップオフィスとして総督館が置かれ、VOCの十七
人会が総督を指名して派遣した。初代総督は1599年以来ブラバント会社で遠征隊指揮
官を務めていたピーテル・ボット(Pieter Both)で、かれは1610年から1614年ま
で総督の座に就き、マルク経営、ティモール(Timor)征服、ティドーレ(Tidore)からのス
ペイン勢力排除といった業績をあげた。この初代から三代目までの間、オランダ東インド
会社総督館はマルク地方に置かれていた。

VOCは1605年にアンボンとテルナーテからポルトガル勢力を駆逐し、アンボンとテ
ルナーテのポルトガル要塞をビクトリア要塞とオラニエ要塞に変えてオランダの戦力にし
た。この段階でマルク地方はVOCにとってジャワ島西部北岸地域よりはるかに安定した
状況になっており、三人の総督がすべてそこを拠点にしてスパイス生産地の完全支配に向
けて手を打っていくことを優先したのも当然の成り行きであったにちがいない。だが十七
人会は決してそれだけで満足していたわけでなかった。

十七人会は初代総督に対して、バンテンで得た商権を育てるための安定した基地獲得を任
務のひとつに与えていたのだ。マルク地方にその機能を求めるのは、距離的に無理がある。
立地条件はジャワ島もしくはスマトラ島だろう。しかしジャワ島内は強力な原住民王国の
支配下にあり、疲弊覚悟で大きな戦争をしなければ、基地を設ける土地の獲得は難しいに
ちがいない。結局この案件は第四代総督のときまで、宿題として持ち越されることになっ
た。[ 続く ]


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