「自殺報道に自主規制を」(2017年08月11日)

2017年7月後半、マスメディアやソーシャルメディアに自殺のニュースが頻繁に登場
した。自殺者のアイデンティティやその方法、そして動機などが熱心に掘り下げられた結
果、自殺者の身近にいてその行為の原因を作ったと思われる者を非難する意見がネット上
に飛び交った。

7月15日のバンドンにあるアパートからの姉妹の投身自殺、7月19日のインスタグラ
ムセレブリティの恋人だった芸能人マネージメント会社CEOの自殺と見られる死亡事件
、7月20日のアメリカのハードロックバンドボーカルの自殺と目される死亡事件、7月
27日にバンドンのパスパティ高架道路から投身して翌日病院で死亡した事件などが、7
月後半に盛り上がった関連ニュースだった。

もちろんそれ以外に、地方版で小さく報道されたものや、まったく報道にも話題にもなら
なかったものも起こっている。自殺事件というのは氷山の一角なのだ。自殺抑止を図って
いる国際機関のデータによれば、世界中で年間に80万人がみずから生命を絶っている。
40秒にひとりという頻度だ。インドネシアに関して言うなら、2012年に9,103
人が自殺したとWHOは報告している。1時間にひとりという頻度だ。

ひとりの自殺者がいて、そのまわりに25人を超える自殺未遂者がいる。インドネシアの
自殺抑止民間団体に2013年から2017年7月までに届いた悲観を訴える手紙152
通のうち57%が自殺を考えており、8〜9%は詳細な計画を立て、3%が遺書の形をと
っていた。

メディアは往々にして単一の動機が本人を自殺に向かわせたような記事を作るが、そんな
単純なものではない。抑うつ、経済問題、慢性病、失恋などが単一の動機になることはな
い。真の動機ははるかに複合的で複雑なものなのだから。

生物学的なファクターが本人の抑うつや精神不安定を導き出して自殺に向かわせることも
ある。人間関係への不適応が自殺を招くこともある。報道記事はそれらの要因を視野に入
れていない。おまけに動機の極端な単純化が自殺模倣者の出現を煽ることになりかねない
。


社会的著名人の自殺は報道ネタになる。アメリカのロックバンドボーカルやインドネシア
の芸能マネージメントCEOの死亡事件に報道機関は飛びついて、生前に当人や身近にい
たひとびとが行っていた個人生活まで暴き出そうと注力した。

社会的著名人に憧れを抱き、あるいは自分の生き方の手本にしていた大衆の中に、その自
殺を模倣しようとする者が現れる。ましてや、何らかの問題に絡みつかれていたなら、自
殺は安易な問題解決手段となりかねない。ウエルテル効果と呼ばれている自殺模倣現象は
、メディア報道によってスピードアップされる。だから報道機関が作る記事の内容は、社
会的な効果をにらんで注意深く作成されなければならないのである。自殺願望者は少なく
ない。かれらが踏みとどまっているのは、実行計画作成への情報や真剣さの不足・怖れ・
精神的な揺れなどによる。そこに報道機関が詳細な実行方法を紹介すれば、ハードルがひ
とつ消えることになりかねないのだ。

インドネシアでもウエルテル効果は発生している。2007年にスラバヤのモールでエス
カレータから投身した事件が引き起こし、また2009年にはジャカルタのモールでも自
殺模倣現象が起こっている。この7月後半にバンドンで起こった投身事件も、模倣現象の
可能性が高い。

だからと言って、マスメディアだけを悪者にすることも難しい。これは国民の精神衛生に
関わっている問題なのである。まず国民社会は自殺ということがらに対して、クリミナル
であるという色眼鏡を外さなければならない。宗教がもたらしている自殺に対する考え方
が、社会的観点をそういう方向に向けているのは言うまでもないだろう。国民の精神衛生
に対して社会全体がどのように対処していくのか、という大所高所からの計画が作られな
ければならないのである。

インドネシアの自殺は生産的年代者が多数を占めていることを忘れてはならない。これは
国家建設に関わる問題なのである。インドネシアの報道機関は自殺記事について、次のよ
うな姿勢で取り扱うことが勧められている。
1.センセーショナルな、あるいは突出した取り扱いをしない
2.自殺者とその家族のアイデンティティを詳細に報道しない
3.現場の写真やビデオおよび自殺方法を報道しない
4.信頼できるソースが発表したデータだけを使用する
5.自殺はある潜伏期間を経たうえで実行されるものであるため、その兆候を示すサイン
/警告への配慮を欠かさない
6.自殺者の遺書やメッセージを報道しない
7.自殺は精神衛生上の疾患によるものであり、犯罪行為ではない
8.単一動機を探し出そうとする姿勢を取らない。事件の背景を単純化してはならない
9.術語はニュートラルな言葉を用い、主観的なニュアンスを持つ言葉を使わない