「バタヴィア港(12)」(2017年08月14日)

続く第二代総督のヘラール・レインスト(Gerard Reynst)はピーテル・ボットから引き継
ぎを受けて総督職に就いたものの、一年ほどで病に倒れ、現地で死去した。十七人会は急
遽、優れた現地の社員ラウレンス・レアル(Laurens Reael)を第三代総督に指名して、指
揮系統に穴をあけないように努めた。かれは1616年から1619年まで総督職を務め、
十七人会が指名した第四代総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen)
にその椅子を引き継いだ。


バンテンでの商権確立とビジネス確保は徐々に進められたが、さまざまな難題がそこにま
とわりついて現地のVOC社員を苦しめた。1602年、ファン・ワールウェイクは再
びバンテンに来航して通商許可を得ようとしたが、徒労に終わった。バンテン王宮がかれ
に与えたのは、商館建設と商館員一名の駐在許可だけだった。1603年にバンテンのオ
ランダ商館が完成し、初代商館長にはフランソワ・ウィテール(Fran?ois Wittert)が就任
した。

イギリス東インド会社がはじめて南洋に送り出した遠征隊はジェームズ・ランカスターが
指揮するもので、1601年にイギリスを出帆し、翌年になってからアチェとバンテンを
訪れた。イギリス王国の公式使節として女王陛下の親書と献納品を携えてきた一行はバン
テン王宮に歓迎され、商館建設の許可が与えられた。

こうしてバンテンの町中にオランダ人とイギリス人が併存し、バンテン王宮のからんだ商
品取引が展開されるようになる。最初はオランダ人もイギリス人も紳士的なビジネスを行
っていたものの、そのうちに両者の間で商品獲得の競争が激しくなり、両者は互いに相手
を蹴落とそうとして抗争があからさまに行われはじめた。両者間の直接的な実力行使だけ
でなく、バンテンの行政官や支配者層を自分の味方につけて相手と反目させようとしたた
めに状況は悪化の一途をたどり、更には1608年に王家の一族の間で内紛が発生して両
派がそれぞれ西洋人を後ろ盾につけようと動いたことから、バンテン王国の国内情勢も険
悪化した。


1526年10月8日にスンダ王国のバンテン地域がイスラム軍の手に落ちてから、そこ
はチレボン王国の領地とされ、王家の一族が領主として置かれるカディパテン(Kadipaten)
の一つとなった。領主の座に就いたのはマウラナ・ハサヌディンだ。

バンテンがスルタン国として自立するのは1552年のことであり、領主のマウラナ・ハ
サヌディンが初代スルタンに横滑りした。この初代スルタンは1570年に没したため、
息子のマウラナ・ユスフ(Maulana Yusuf)がそのあとを継いだ。マウラナ・ユスフは15
85年に没し、まだ幼い王子のマウラナ・ムハンマッ(Maulana Muhammad)が後見者に護ら
れて王位に就く。成人したマウラナ・ムハンマッは既にバンテンに服属しているランプン
を越えてパレンバンを伐り従えようと軍を率いて進攻し、その戦の中で1596年に没し
た。

急遽ふたたび、その王子が王位を継ぐことになる。バンテン王国第4代スルタンとなった
のは、まだ生後5カ月のアブドゥル・ムファキルだった。この幼いスルタン・アブドゥル
・ムファキル・マフムッ・アブドゥルカディル(Sultan Abdul Mafakhir Mahmud Abdulqa-
dir)は後にスルタンアグン(Sultan Agung)と呼ばれた人物だが、よく似た名前のスルタン
・アグン・ティルタヤサ(Sultan Ageng Tirtayasa)とは別人であり、祖父と孫の関係にな
る。

アブドゥル・ムファキルを後見したのは、行政府の最高責任者であるマンクブミ(Mangku-
bumi)のジャヤヌガラ(Jayanegara)だった。ところが1602年にジャヤヌガラが死去し
たため、その弟がマンクブミの職を継いだ。ところが弟は兄ほど高潔でなく、ほどなく不
祥事が起こって弟はマンクブミの座から追われる。[ 続く ]


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