「バタヴィア港(13)」(2017年08月15日)

アブドゥル・ムファキルの母、ニマス・ラトゥ・アユ・ワナギリ(Nyimas Ratu Ayu Wana-
giri)が政権に関わりたい一派に担がれて、スルタンの後見者となった。この構図はあら
ゆる国で頻繁に起こった政権争奪争いの典型パターンだろう。結局1608年からほぼ一
年間、バンテン王家の血で血を洗う内紛によって王国内は大いに乱れたのである。

内紛はパゲラン・ジャヤカルタ・ウィジャヤ・クラマの調停で鎮静化し、マウラナ・ユス
フの王子のひとり、アリヤ・ラナマンガラ(Arya Ranamanggala)がマンクブミの位に就い
てスルタン・アブドゥル・ムファキルを後見することになった。後に先鋭化していくウィ
ジャヤ・クラマとアリヤ・ラナマンガラの確執が、ここに端を発する。このふたりはいと
こ同士なのだ。


VOCがバンテンに建てた商館は、バンテン王国初代スルタンが設けたスロソワン(Suro-
sowan)宮殿へ向かう大通りに沿った町の中心部だった。イギリス東インド会社が派遣した
ジェームズ・ランカスターの遠征隊もバンテンに駐在員を置き、そのあとを追ってフラン
スやデンマークなど他のヨーロッパ諸国からも商人がバンテンを訪れるようになって、バ
ンテンのヨーロッパ人コミュニティは百人を超える人口に膨れ上がっていった。その人口
のマジョリティを占めたのは、メスティーソと呼ばれるポルトガル人とアジア人の混血者
だ。

ポルトガル人がアジアで占領した諸港諸都市を維持するためには、人口の不足がネックに
なった。だから現地で子供を産ませてキリスト教文化の中で育て上げ、自らをポルトガル
人(キリスト教徒としての、もっと広い意味でのヨーロッパ人)と意識する混血者がポル
トガルのアジア経営に重要な役割を果たしてきたのである。あるポルトガル軍船の乗組員
はすべてメスティーソで、キャプテンだけが純血ポルトガル人というケースはざらにあっ
たし、もっとあとにはポルトガル要塞の守備隊長以下全員がメスティーソという例も出現
している。だからアジアでは、ポルトガルの世紀にヨーロッパ人とのコミュニケーション
言語としてメスティーソが使う卑俗化したポルトガル語が普及したのだった。

ポルトガルの世紀が幕を閉じたのは、後を追ってアジアに進出してきたオランダ人、そし
てイギリス人によるものだ。オランダ人は最初、ポルトガルの勢力を避けながら南洋に進
出し、態勢を整えてからポルトガル人の追い落としにかかった。そしてポルトガル人と同
じようにアジアの諸港諸都市をネットワークで結んだが、ポルトガル人のように人手不足
に苦しめられることがあまりなかった。なぜなら、ポルトガル人から奪った諸港諸都市は
既にメスティーソによって動いていたのであり、オランダ人はその体制の上に乗っかる形
で支配者の交代をしたから、ポルトガルの旗がオランダの旗に替わっただけで、メスティ
ーソたちは従来の暮らしにたいした混乱や転変を被らず、安全で平穏な生活を続けること
ができたということらしい。ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが興したバタヴィアの街は
最初、住民人口があまりにも乏しかったために、アジアの各地からメスティーソを連れて
きて街の人口充実を図った。ところがそのうちにメスティーソよりはるかに勤労意欲の高
い人種が存在することに気付いた。中国人だ。それ以来、バタヴィアの都市建設方針が一
変するのである。

だからヨーロッパ各国の商人がバンテンでの物産取引の手伝いをさせるために雇ったメス
ティーソがメインを占めることになったわけだ。それ以外にも、バンテンのヨーロッパ人
コミュニティに属す非原住民の中には、イギリス人に雇われたロシア人、アフリカから連
れてこられた黒人奴隷、平戸で集められた日本人傭兵などが混じっており、またヨーロッ
パ人コミュニティに属さない非原住民として、はるか以前から住み着いていた中国人やア
ラブ人などもいた。その中に、ポルトガル人商人すら混じっていたのは、個人として活動
する人間が国籍を問わずに受け入れられていたことを示す実例だろう。[ 続く ]


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