「規律欠如民族」(2017年08月16日)

ライター: コンパス紙記者、M スブハン SD
ソース: 2017年8月10日付けコンパス紙 "Negeri tanpa Disiplin"

1996年のある日、レンバンのプサントレン「ラウラトゥッ・タリビン」でキヤイ・ハ
ジ・ムストファ・ビスリ(グス・ムス)はサントリたちの指導を終えた夕刻、「権力の章」
について考えを述べた。形式面の敬虔さが社会的な敬虔さと不即不離であることをモット
ーにしているグス・ムスは、サルン姿であぐらをかいたスタイルで、「大きい者はいつも
自分のほうが支配者であると感じている」と語った。

エジプトのアルアズハル大学を卒業したウラマであるかれは、だれもが目にしているシン
プルな例を描き出した。路上で運転者が示すビヘイビアのポートレートだ。「大型バスや
大型トラックの運転手は中型のバスやトラックよりも自分のほうが路上の支配者だと感じ
ている。中型のバスやトラックの運転手は自家用車よりも自分のほうが路上の支配権を持
っていると感じている。自家用車の運転者はオートバイよりも自分のほうに権力があると
思っている。そしてオートバイライダーは歩行者よりも自分に路上の支配権があると感じ
ている。」

最近路上で見かける傲慢さに心が乱されたとき、グス・ムスのその言葉が耳の奥でこだま
した。オートバイライダーが歩道を支配してそこをわが物に変えたときもそうだった。歩
行者の権利は奪い去られた。オートバイライダーに自覚を促し、オートバイの歩道走行を
妨げ、歩道に寝そべる捨て身行動を民間団体が展開したのも、二度や三度のことではない。

警察が交通秩序運動キャンペーンを展開した時も、障害がなかったわけではない。オート
バイライダーが歩行者と現場係官との間でもめ事を起こしたことも頻繁だった。歩道を違
反通行したオートバイライダーが怒鳴り散らしている姿を示すビデオは何度もソーシャル
メディアの話題になった。交通ルールを指導する係官がかれらに注意すると、かれらは反
対に係官に不平をぶつけた。「オレは以前からいつもここを通ってんだよ。」というよう
な苦情がだいたいの、何の罪悪感も持たないかれらの自己正当化根拠だ。これがインドネ
シア人の奇妙さだ。自覚などせず、自分に注意してくる者に激しく咬みつき、間違ったこ
とをしたというのに自分を正当化させようと闘志を燃やす。

昨今の日常生活においては、決まりを破る人間が顕著に増加している。順番待ちの列に割
り込む人間は数知れない。路上では、道路逆走は場所によって、既に当たり前の行為とな
っている。交通警官がそこにいても、かれらは少しも怖れを示さない。法の権威はやせ細
り、民衆の法規不服従意欲はますます盛んだ。それらは、インドネシアが規律欠如社会に
なっているためである。


独立後のスカルの時代に、国民の資質作りは盛んに取り上げられた。スハルト時代には、
1995年5月20日に国民規律運動が打ち上げられた。1998年のレフォルマシ以降、
国民のビヘイビアは限界のない自由に満たされ、反動的・アグレッシブ・違反と不服従・
すぐ激高して見境がなくなり・自分の正義を押し付けて他人を裁くといった、先週ブカシ
で起こったような事件を頻発させている。

レフォルマシ期に入って以来、規律は消滅した観がある。社会のすべての面が政治に吸い
込まれ、支配権の争奪を競い合っている。民族のエネルギーは地方首長選挙・国会議員選
挙・大統領選挙のためにほぼ使い果たされている。社会の規律を強化するのは二の次にさ
れているようだ。

2015年11月29日に、国民規律運動の声が再びこだました。この規律運動がまず高
官に実践され、コルプシや国家資産の悪用、マネーポリティクスが姿を消して行かなけれ
ばならない、とチャヒヨ・クモロ内務相は語った。内相の言う通りだ。模範が示されなけ
れば、社会の規律はただの夢物語に終わってしまう。国家エリートたちが規律から遠ざか
れば遠ざかるほど、一般人もますますブルータルになっていく。グス・ムスが指摘するよ
うに、路上にいる一般人でさえひとりひとりが支配権を実践しているのだ。この国が社会
の規律を持たない国に育つようなことを放置してはならない。