「バタヴィア港(15)」(2017年08月18日)

バンテン王国の内紛に関わろうとしたオランダ人とイギリス人に、アリヤ・ラナマンガラ
は強い危惧と反感を抱いた。とはいえ、コショウの有力バイヤーの一端であるかれらはバ
ンテンにとってのメリットも抱えている。ラナマンガラはかれらを冷遇しようと努めた。

オランダ人もイギリス人もスルタンの後見人ラナマンガラの歓心を買おうと努めたが、オ
ランダ人はその一方でひそかにパゲラン・ジャヤカルタへのアプローチを強めて行った。
ラナマンガラの姿勢が変わらなければ、ジャヤカルタに買付場所を移すだけのことだ。相
互に敵対心を持ち、疑心暗鬼に陥っているバンテンとジャヤカルタを手玉に取ろうという
作戦をオランダ人は開始した。


バンテンのVOC商館はパゲラン・ジャヤカルタとの折衝を根気よく続けた末に、161
0年11月ついにジャヤカルタに住居と商館あるいは取引所を建設する許可を得た。バン
テンの商館長ジャック・レルミト(Jacques L'Hermite)はチリウン川河口東岸に縦横それ
ぞれ50尋の土地を当時の相場の50倍の価格でウィジャヤ・クラマから買い取り、そこ
に商館を建てた。ジャヤカルタの町にもスラム状のプチナンが川を越えた東側にある。商
館建設用地はそのプチナンの北側だった。ウィジャヤ・クラマが与えた商館建設許可の内
容がそうなっていたことは言うまでもあるまい。オランダ人に選択の余地は与えられなか
った。

建設用地は常に水をかぶっている湿地帯であり、沼地での基礎工事はたいへん手間取った。
カプテン・ワッティング(Kapten Watting)が初代ジャヤカルタ駐在員を命じられ、かれは
そこから近い場所に家を借りて住み、工事の進捗をはかったものの、資金・資材・人手・
そして建築知識と専門能力のすべてが不足しており、建設プロジェクトは遅々としてはか
どらなかったが、それでも少しずつ建造物は形を取り始めた。石と漆喰も使われたが不足
分は木や竹あるいはわらで補われたみすぼらしいものになった。その一方で、川に沿って
50歩ほど一直線に伸びた堅固な石造りの城壁が、建物とはまるでそぐわない姿を示して
いた。それは50尋の土地を十八歩オーバーして、プチナン側に食い込んでいる。

1611年に完成したナッソーハイスはオランダ人の宿舎兼取引所として稼働を始めた。
VOCはナッソーハイスで行われる取引がジャヤカルタの徴税を免れるものだと主張した。
自己所有の土地内で行う売買に市域を統括する行政の徴税権は及ばないとVOC駐在員は
言い張った。だが原住民側の慣習では、領地内のすべての土地は領主の所有に帰すること
になっており、土地使用の権利はその用途と納税をもってはじめて認められるのである。

役人はまた、城壁が用地の外まで伸びていることを問題にしたが、それはパゲラン・ジャ
ヤカルタの同意を得ていることだ、と駐在員は空とぼけた。ヨーロッパ人たちがプリンス
ジャカトラ(Prins van Jacatra)と呼んでいるパゲラン・ジャヤカルタは役人の報告を聞
いて腹を立てた。かれは役人に事実を語ってオランダ人の横暴を取り締まるよう命じたも
のの、オランダ人の態度を見る限り一戦交えなければ事は終わらない、と語る役人にそれ
以上命令することができなくなった。通商を盛んにして経済を勃興させ、バンテンと肩を
並べる港市に育て上げるために呼び込んだヨーロッパ人を、取引の実績もあがらないうち
にまた追い出すのでは、何をしていることやら解らなくなる。ウィジャヤ・クラマはリス
クを抱えることを決意し、王宮の警護を増強し、またチリウン河口西岸に大きな税関倉庫
を作らせた。倉庫が作られた場所はPaep Janの土地と呼ばれ、後に税関を意味するインド
ネシア語Pabeanの語源になったという話だ。

そのジャカトラという言葉は日本人の耳に「ジャガタラ」と聞こえたようだ。そのため、
南洋に関する知識が増加し始めた当時の日本人は、ルソンのずっと向こうにある大きな島
のことをジャガタラと呼ぶようになった。ジャガタラからやってくる紅毛人は南蛮人であ
り、かれらが主食にしている芋はジャガタラ芋、略してジャガイモと呼ばれるようになっ
たそうだ。だがそのジャガイモが南米の原産であり、スペイン人がヨーロッパに広めたも
のをオランダ人が南洋に持ち込んできたという歴史にまでは知識が及ばなかったようだ。
[ 続く ]


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