「バタヴィア港(16)」(2017年08月21日)

オランダ人はまた、プリンスジャカトラにはまったく無断で、ジャヤカルタの海岸から4
キロほど沖に浮かぶオンルスト(Onrust)とカイパー(Kuyper)の島々に基地を設けた。それ
は小規模な海軍基地であり、船舶修理所・兵舎・倉庫・教会・病院などの施設がそこに立
ち並んだ。


パゲラン・ジャヤカルタ・ウィジャヤ・クラマがバンテンに対抗してオランダ人の商館建
設を認めたことが、ラナマンガラに怒りの火を燃えたたせたことは疑いがない。本家であ
るバンテンに一言の相談もなく僭越なふるまいをするとは、何たる思い上がりだろうか!
ジャヤカルタをウィジャヤ・クラマの手にゆだねておけば、とんでもないことになりかね
ない。パゲラン・ジャヤカルタを廃してあの属領をバンテン行政機構の直属に移行させる
ことをラナマンガラは考えるようになった。

しかしウィジャヤ・クラマも決して愚者ではない。オランダ商館は吹けば倒れるように貧
相なものにしておかなければならないのだ。頑丈な建物を造らせ、そこに大砲などを置か
れたら、商館は要塞に一変する。絶対にそうさせてはならない。そんな方針でオランダ人
に向かおうとしたにも関わらず、かれとオランダ人との力関係は結局逆転してしまう。プ
リンスの善性がオランダ人の狡猾さに呑み込まれてしまったのかもしれない。


1615年になってイギリス人の南洋政策が積極化し、イギリス東インド会社はクリスト
ファー・プリン(Christopher Pring)に5隻の軍船を指揮させて南洋に向かわせた。16
18年にバンテンに到着したプリン船隊は、オランダ人を威嚇するべく示威行動を行う。
VOCはそのとき、それに対抗する戦力をジャワ島西部北岸地域に持っていなかった。こ
のままイギリス人と抗争を続けていては、自滅してしまうのが明白だ。

バンテンでの取引が停滞を続けているのに反して、ジャヤカルタのVOC商館は徐々に取
引量が増加していたから、オランダ人はバンテンをイギリス人に明け渡す方針を選んだ。

バンテンのオランダ商館にある人員と貨物の主力は海路ジャヤカルタのナッソーハイスに
移され、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンもジャヤカルタに移ってVOCの本拠地となる
基地の建設に取り掛かる。ナッソーハイスは全面石造りの堅固な建物に改造され、さらに
川岸に沿ってもうひとつの建物マウリティウスハイスが建てられて、ふたつの石造りの建
物がL字形をなすように配置された。頑丈な石の城壁がふたつの建物をつなぎ、城壁の上
には数門の大砲が川に向けて並べられ、警備兵も25人から50人に増やされて新式銃を
持たされた。オランダ商館は要塞に姿を変えたのである。これが第一期カスティルだ。

加えて、要塞に接近しすぎている住民家屋は襲撃してくる敵に利用されるため、要塞の周
囲をある程度の距離までクリヤーにすることも強行された。つまり武装オランダ兵が住民
家屋を強引に取り壊して空き地に変えたのである。通商をしにやってきたはずのオランダ
人が一転して完全武装集団に変化したことにウィジャヤ・クラマは仰天したにちがいない。
恐れていた事態が現実になりつつある。だが続いて、かれの不安をやわらげる方向へと事
態は変化して行った。


イギリス人がオランダ人を追ってジャヤカルタまでやってきたのである。1618年9月、
プリンはウィジャヤ・クラマを訪問して協定を結ぶことに成功した。毎年7百リアルを支
払うことで取引の免税特権をもらい、またイギリス商館を建てるためにパベアンと王宮の
間にある土地を1千5百リアルで手に入れた。そこはクーンが改造したカスティルと川を
はさんで対峙する場所だった。商館建設のためにイギリス人駐在員がやってきて、工事の
指揮を執る。その駐在員は王宮の軍事顧問も兼ね、ジャヤカルタ軍の武装は目覚ましく向
上した。[ 続く ]


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