「バタヴィア港(17)」(2017年08月22日)

ウィジャヤ・クラマがオランダ人を追い落とそうとしているイギリス人に深く傾倒したの
は、オランダ人が突然武威をむき出して脅威をまき散らすようになったことや狡猾なオラ
ンダ人への憎しみもあったのだろうが、それ以上にかれの眼前で展開された武力の差異に
駆られた面が強かったにちがいない。VOCの戦力は総督館のあるマルク地方を根拠地に
していたため、西ジャワ北岸部には手薄な戦力しかなかなかった。それに対する圧倒的な
イギリス人の戦力を目の当たりにしたウィジャヤ・クラマは、オランダ人は撃滅される運
命にある、と考えた。今ここで両者が正面衝突すれば、オランダ側に勝ち目のないのは明
らかだ。

それに加えて1618年11月、イギリス東インド会社が南洋に派遣したトーマス・デイ
ル(Thomas Dale)率いる6隻の船隊がバンテンの沖合に姿を現したのである。先に来てい
たプリンの船隊と合流したデイル船隊は、南洋の商圏を手中に納めようとしてアグレッシ
ブさを増し始めたVOCの目論見をここで粉砕しようとする挙に出た。オランダ人がバン
テンを去っても、ジャヤカルタを征服してそこに強固な基地を作るのであればイギリスの
権益への障害になるのは明白である。ジャヤカルタをオランダ人奪わせてはならないのだ。
だからこそプリンは執拗にオランダ人を追い続けていたのだ。


イギリスの海上部隊はバンテンとジャヤカルタの沖に散開して、オランダ船の入出港を封
鎖する構えに出た。折しも、日本・中国・シャムからの総額8万リンギットに値する貨物
を積んでパタニからバンテンへ戻って来たオランダ商船デスワルテレウォ(de zwarte 
leeuw)号が、そのような状況の変化をつゆ知らず、待ち受けていたイギリス軍船に拿捕さ
れてしまった。乗組員は全員捕らえられて船内に拘留され、船はイギリス人による監視下
に置かれたが、突然猛火が船体を包んで捕虜も積荷も灰になってしまった。

伝書使が慌ただしくジャヤカルタとバンテンを往復し、事件に関する報告がクーンのもと
に次々と届けられた。事実は、酔ったイギリス人水夫が船倉から酒を持ち出そうとして、
誤って持っていた灯りを落としてしまい、こぼれていた酒に引火して大火災となり、オラ
ンダ人ばかりか監視に当たっていたイギリス人にも犠牲者が出たのだが、その内容が判明
したのはずっと後のことであり、クーンはその事件を別の角度から解釈した。オランダの
海軍力は総力を傾けてイギリスにぶつかっていかなければならない。劣勢に押されて縮こ
まっていては、ジリ貧が待ち構えているだけだ。VOCの未来に輝きは消え去ってしまう。

クーンは敵味方の戦力を比較した。イギリス人は15隻の船と2千5百人の兵力でオラン
ダ人を叩き潰そうと意気込んでいる。言うまでもなく、それは第一線に投入された臨戦態
勢の大部隊なのだ。一方、クーン側の手持ちはオンルストで修理中もしくは修理待ちの7
隻の小型船がすべてであり、兵員は150名しかいなかった。負傷兵・商人・日本人傭兵
・ポルトガル人協力者そして中国人や原住民の使用人までかり集めて銃を持たせても、戦
闘力は250名ほどにしかならない。残るカスティルの住民は、奴隷と解放奴隷ならびに
中国人とメスティーソの婦女子4百人だった。

銃と大砲は豊富にあるが、火薬は40樽、砲弾は3百発しかなかった。食糧は入手が制限
されていたため、ストックはあまりない。飲料水は川からの流れを引き込んでいたが、川
の水流を妨害されたらそれまでだ。皮肉なことに、商品や貴金属・宝石・珍品は倉庫にあ
ふれんばかりだった。

クーンは十七人会への報告書を作り、この緊急事態に対処するための軍備と物資の補給を
強く要請する文章を書き込んでアムステルダムに向けて送らせたが、報告書が無事にアム
ステルダムに届いたとして十七人会がそれを読むのは6カ月先になる。そんなことをあて
にするクーンではなかった。[ 続く ]


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