「バタヴィア港(18)」(2017年08月23日)

バンテンのマンクブミ、アリア・ラナマンガラはジャヤカルタでの状況を注意深く見守っ
ていた。状況把握をより深めるために、かれは現地の状況を実地に見聞させようと考えて、
弟のひとりパゲラン・ガバン(Pangeran Gabang)をジャヤカルタに出向かせた。ガバンは
3百人の従者や子供らを伴って海路ジャヤカルタを訪れ、町の外で狩りを楽しんだ。あた
かもそれがジャヤカルタへ来た主目的であるかのように。

そしてそのあと、オランダ人がファーダー・スミッツ(Vader Smit)と呼んでいる少し離れ
た島にクーンを呼び出した。そのときの会見の内容はまったく記録に残されていない。こ
のファーダー・スミッツ島はタンジュンプリオッの海岸から近いところにあった砂島で、
日本軍政期に砂が取りつくされたために海中に沈んでしまったそうだ。

数日後、パゲラン・ガバンは1隻の船に百人ばかりの武装兵を乗せて、チリウン川に乗り
入れた。対峙するイギリスとオランダの基地の間を抜けてウィジャヤ・クラマの王宮へ着
くと、ウィジャヤ・クラマに会うために下船した。ウィジャヤ・クラマはこのいとこの来
訪の真意をはかりかねたが、歓迎を示した。王宮でしばらく過ごしてから、パゲラン・ガ
バンは次にオランダの要塞カスティルを訪れた。クーンもかれを歓迎し、カスティル内を
案内して要塞の構造や配置されている兵力をざっくばらんに説明した。


バンテンからの客人一行がジャヤカルタを去ると、張り詰めていた緊張がすこしやわらい
だ。ウィジャヤ・クラマはクーンにカスティルを移転させるよう提案したが、クーンにそ
んな気は微塵もなかった。高さ19フィート、幅7フィート、長さ120フィートの堅固
な城壁が完成しつつあったからだ。カスティルを攻撃から守るために大量の石を使ったそ
の城壁が完成すると、城壁の上には大型砲40門と無数の小型砲が設置された。

ウィジャヤ・クラマは領民に対して、オランダ人に建築資材や労働力を提供することを禁
じていたが、オランダ人は予想外の速さでその仕事を成し遂げてしまった。ウィジャヤ・
クラマは無許可でオランダ人が作ったその城壁を非難し、撤去を命じる文書をクーンに送
った。クーンの返書には、マタラム王国がジャヤカルタに進攻してきたときに、この城壁
がジャヤカルタを護り切るであろうという言葉が記されていた。城壁問題はそこで終わっ
てしまったようだ。


ジャヤカルタで小康状態が続いているとき、ジュパラのVOC倉庫をマタラム軍が攻撃し、
2千リンギットの商品が奪われ、ヨーロッパ人が3人死亡し、3人が負傷し、17人が捕
らえられて身代金が要求された。クーンは即座に兵員150名をジュパラに送って報復し
た。オランダ人の破壊と略奪の嵐がジュパラの町を荒れ狂い、またその途中の町々でも同
じことが繰り返された。その示威的軍事行動が、マタラム王国だけでなく広くジャワ島内
にも威嚇効果をもたらすだろうことを、クーンは計算済みだった。

それは、戦力的に窮地に置かれているクーンにとって、危険この上ない賭けだった。たと
え短期間であっても、カスティルの戦力を割くのは大きな冒険であり、たとえその作戦が
奇襲であったとしても、150名のすべてが無傷で帰還するのは、よほどの幸運でなけれ
ば考えにくいことだ。

その間、カスティルには正規兵がひとりもいなくなる。そのときに重装備の大軍が攻め込
んでくれば、オランダ人が築いてきた足場は消滅するかもしれない。しかしクーンはその
大きい賭けに手持ちのすべてを張った。

幸いにも、攻撃部隊は短期間で帰還してきた。カスティルの兵力は維持された。おまけに、
ウィジャヤ・クラマもイギリス人も、その奇襲部隊の出撃にまったく気付いていなかった
のだ。こうして最悪の事態は回避されたとはいえ、オランダ側の軍事力が弱体であること
は変わりなかった。[ 続く ]


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