「バタヴィア港(20)」(2017年09月05日)

参事会は、ジャヤカルタ・イギリス・バンテンのどれか一者と同盟を結んで他の二者と対
峙しようということを、まじめに討議しはじめた。相手にするなら、やはりアジア人より
もイギリス人だろう。しかしオランダ人の利益をアジア人から守るためにイギリス人がオ
ランダ人に味方するなどという期待は、救いがたい現状認識の誤りだ。なぜなら、オラン
ダ人がこれまで自力で獲得してきた権益をかすめ取ろうとしてイギリス人が世界中で動い
ている事実が忘れ去られているではないか。ジャヤカルタでオランダ人が窮地に追い込ま
れたのも、イギリス人のその方針が原因をなしているのだ。だから現状打破のためにそん
なイギリス人に助けを求めるのが祖国と同胞への裏切りとなるのは明白ではないか。

カスティルを無傷で明け渡すのを代償にして降伏の条件を検討したが、結局何の結論も議
決されなかった。


12月30日、11隻のイギリス船隊がついにチリウン河口に集結した。総砲数3百門、
兵員1千5百名という戦力は、カスティルに対して2倍の火力、10倍の兵力だった。総
司令官トーマス・デイルはラッパ手と口上人が乗った小舟をチリウン川に入れさせ、オラ
ンダ人に対して降伏勧告、ジャヤカルタ市民には協力を呼び掛けた。

クーンと参事会はVOC現地駐在高位者12名のカスティル脱出を決定した。VOC商務
員のピーテル・ファン・デン・ブルッケ(Pieter van den Broecke)がカスティル守備隊長
に任命され、日本とペルシャで有能さを示した経験豊富な兵士が副隊長としてかれを補佐
した。

もしも最悪の事態に立ち至ったなら、イギリス側に投降してオランダ人の生命保護を優先
すること、ただしカスティルと兵器や商品などすべての資産には火を放って、決して誰の
手にも渡してはならない。留守を預けた責任者にクーンはそう厳命した。このピーテル・
ファン・デン・ブルッケは後にクーンからアンボンのバンダ諸島の経営を託され、現地で
のスパイス独占にまい進することになる人物だ。

クーンら上層部はその夜、オンルストから呼んであった小型船に乗り込むと、夜陰に乗じ
て海上へ脱出した。そして数日間、沖に停泊したまま、カスティルとジャヤカルタの情勢
を見守った。


1619年1月3日、大型オランダ商船が一隻、ジャヤカルタに接近してきた。クーンは
スマトラから荷を積んで戻って来たその船に合流するよう命じた。ところがそのうち、水
平線上にイギリス船隊が出現すると、砲撃しながら接近してきたではないか。こうなれば
オランダ船隊は逃げるしかない。4時間の追撃戦は日没とともに終わった。クーンはその
ままマルクへ向かうことを決めた。

かれは小型船一隻をカスティルに置くことにし、ブルッケへの厳命を再確認する手紙を持
たせてジャヤカルタへ向かわせた。またフリゲート船一隻をスンダ海峡に向かわせ、海峡
を遊弋して見つけたオランダ船にはジャヤカルタを避けるよう連絡する任務を与えた。別
のフリゲート船一隻には、早急にアムステルダムへ直航して、事の次第を十七人会に報告
するよう命じた。

こうしてオランダ船隊は別方向へ散る数隻を残して、一路東方に向けて進路を取った。ク
ーンはカスティルとそこに依拠する3百人の住人を運命の手に引き渡してしまったのだ。

いやそれはクーンの目から見ての話しであって、カスティル守備隊のみんながそんな風に
状況を見ていたわけでもあるまい。クーンがいかに有能な統率者であったかということに
異論をさしはさむ者はいないだろうが、自分がいなくなると部下はなすすべもなく自滅し
ていくだろうとクーンが部下を見ていたかどうかの問題なのである。これは自立と依存と
いう文化問題であり、人間の社会的ビヘイビアにおいてそのどちらを善とする価値観で社
会が営まれているのかがポイントになっているはずだ。[ 続く ]

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