「バタヴィア港(22)」(2017年09月07日)

数日後、川を隔ててカスティルの向かいにあるイギリス陣地跡の防壁の上で、ひとりのオ
ランダ人が手足を鎖で縛られ、首に絞首刑のロープを巻かれた姿で、イギリス兵に引っ立
てられながら行ったり来たりしているのが、カスティルからはっきり見えた。カスティル
の中が騒がしくなった。
「あれはブルッケ隊長だ。」
「まるで、これから死刑にされるみたいじゃないか。」
カスティルから非難の叫び声があがった。

しかし、それは単にオランダ人を威嚇するためのデモンストレーションでしかなく、ブル
ッケ死刑の場の一幕は演じられなかった。ともあれそんな形で戦闘が停止されている間に、
オランダ人は先の攻撃で破損した城壁の修理を一生懸命行っていた。


イギリス人はデイルの手紙を密書にしてカスティルに送って来た。中を開くと、イギリス
側に投降せよ、という勧告だ。イギリスに降伏するなら、イギリス船で希望する場所まで
送り届けよう。持参する個人資産はひとりあたり6千2百リンギットまで認める。もしイ
ギリス船で働きたいなら、仕事と高額の給料を保証する。その条件に賛同するなら、オラ
ンダ人は非武装でカスティルから退去し、カスティルをイギリス人に明け渡せ。カスティ
ル内にある兵器と弾薬はすべてイギリス側に引き渡し、財貨と商品はプリンスジャカトラ
をうまく抑えるために使わせてもらう。現地人使用人の裏切りを警戒せよ、といったこと
が書かれてあった。それからは、矢文による対話が双方の間で続けられた。


2月1日、イギリス、ジャヤカルタ、オランダの三者間で降伏文書の調印が正式に行われ
た。ところがその翌自、事態は急転したのである。


2月2日、2千人のバンテン兵がジャヤカルタへ進軍してきたのだ。バンテン軍はジャヤ
カルタの市中を制圧し、パゲラン・ジャヤカルタの王宮をも占拠して、ジャヤカルタを戒
厳令下においた。三者間の降伏合意に関わった勢力の中で、その事態の転変に驚かなかっ
た者はいない。

アリア・ラナマンガラは三者間で行われたオランダ降伏の合意を認めなかった。かれはバ
ンテン王国第4代スルタンを通してジャヤカルタ制圧軍指揮官に、オランダ降伏によって
発生するジャヤカルタでのさまざまな処理が行われないようにすること、パゲラン・ジャ
ヤカルタを王宮から放逐すること、イギリス人にはバンテン王宮の許可なしに勝手なふる
まいをさせないこと、などを実行するよう命じていた。

ジャヤカルタに進駐したバンテン軍は王宮を占拠して、ウィジャヤ・クラマとその側近た
ちを町の外のジャングルに追放した。そして町を制圧し、川にボームを置き、イギリス人
に自粛を命じた。ジャヤカルタの宗主であるバンテン王国は、属領の領主が承諾なしに勝
手に結んだ協定が無効であることをかれら三者に見せつけたのである。


パゲラン・ジャヤカルタの墓所がプロガドン(Pulogadung)工業団地に近いジャティヌガラ
カウム(Jatinegara Kaum)にある。ただし一説によれば、バンテン軍の進攻でジャヤカル
タが制圧されたとき、ウィジャヤ・クラマはバンテンに連れ戻され、しばらくしてからそ
の息子アフマッ・ジャクトラ(Achmad Jaketra)がジャヤカルタ王宮の主となったと語られ
ている。このアフマッ・ジャクトラもパゲラン・ジャヤカルタの名前を称したため、いさ
さかわかりにくい話になったようだ。

マルクから戻って来たクーンがジャヤカルタを征服したとき、ジャヤカルタを落ち延びた
のはアフマッ・ジャクトラであり、かれはヒンドゥブッダ王朝のスンダ王国時代から既に
開けていたジャティヌガラに移ってジャヤカルタの後背地を支配し、そして没後ジャティ
ヌガラカウムに墓所が作られた。

もちろん、ウィジャヤ・クラマがラナマンガラによって追放され、家臣たちとともにジャ
ティヌガラへ移って一帯を支配した可能性も十分にある。そして息子の墓所が現代まで残
されたなら、上のような現象になることも考えられるにちがいない。この話は余談として
おこう。[ 続く ]


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