「バタヴィア港(25)」(2017年09月12日)

クーンが大兵力を率いてジャヤカルタに向かっているという情報は、すぐにジャヤカルタ
の町中に広まった。そして信仰に似た恐怖心がジャヤカルタ兵とバンテン兵の間にひたひ
たとしみ込んでいったようだ。

オランダ人が行った夜襲攻撃でバンテン側に損害が出たのだから、誤解云々は別にして、
バンテン側に損害賠償を要求する権利が生じている。でなければ襲撃の責任者を処罰する
ことも可能だ。だが、クーンという名前を耳にしたとたん、そのような些事は雲散霧消し
てしまった。バンテン軍のカスティルに対する軍事攻撃の意欲も萎えてしまったらしい。


5月28日、17隻のオランダ船隊がジャヤカルタ沖に出現した。そして、ジャヤカルタ
の海岸を埋め尽くすように包囲した。

クーンは旗艦プチホランド(Petit Holland)号からカスティルを望んでいた。カスティル
はクーンが去ってから5カ月間、まるで何事もなかったかのように、チリウン川河口右岸
にその威容を誇示していた。へんぽんと翻るオランダ国旗を見つめるクーンの胸中は、い
かばかりだっただろうか。

マルクで捲土重来の準備を進めていた5カ月間、クーンは気が気でなかった。だがかれの
もとに集まってくる情報は、ジャヤカルタのカスティルがまだだれにも奪われていないこ
とを物語っていた。あの諸情報は確かに間違っていなかったのだ。クーンはすぐにカステ
ィルと連絡を取り始めた。


5月30日、クーン船隊が運んできた1千1百名の兵員のうち、1千名に出撃命令が出さ
れた。オランダ兵は矢継ぎ早に上陸すると、ジャヤカルタの町に攻め込んだ。ジャヤカル
タの町の防備に当たっていたジャヤカルタ兵とバンテン兵はそれぞれ4千人あまりいたは
ずだが、オランダ兵の攻撃に最初から浮足立っていたようだ。組織的な抵抗はほとんど見
られず、オランダ人部隊の銃撃に会うと、死者を残してどんどん後退していった。

そのありさまに、非戦闘員である住民たちも、われがちに町の外のジャングルの中に姿を
消して行った。こうなれば戦闘員と非戦闘員が一丸となって逃げ出すばかりだ。バンテン
軍指揮官も嘆いたにちがいない。

ジャヤカルタ征服はその一日で終了し、がらんどうの家屋や諸施設が残された。クーンは
続いてオランダ兵に命じた。「町のすべてを破壊せよ。」
ヨーロッパ人が住むための街をここに建設するという考えが、そのときのクーンの頭の中
にはきっと充満していたにちがいない。


カスティルに戻ったクーンは、カスティルを守ったひとびとへの賞罰を行った。カスティ
ルがVOCのために守り抜かれたのだから、「全員よくやった。」ということにしないの
が、規律厳守の統率者であるクーンという人物の本領だろう。結果として、規律違反者に
対する罰のほうが多くなったらしい。違反の内容によって罰の軽重が異なったわけだが、
VOC入社時の階級に降格された者があり、あるいは会社資産への損害責任を問われた者
は今後の給与から天引きすると宣告された者もあった。
クーンはそれらの処分を規則に従って淡々と決定し、その通りに実行させた。

クーンはまた、バンテンのスルタンに対して、ブルッケ以下バンテンに囚われているオラ
ンダ人と関係者の引き渡しを要求した。スルタンが要求を蹴ったためにクーンは一部兵力
を率いてバンテンへ示威に赴き、6月6日にバンテンはクーンに降参して虜囚の引き渡し
に応じた。[ 続く ]


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