「バタヴィア港(26)」(2017年09月13日)

イギリス人はバンテンの商館を維持して商活動を行っていたが、クーンがバンテンのスル
タンを恫喝するありさまを見て、クーンの報復を受ける前にバンテンから去った。プリン
の船隊もデイルの船隊も、一時的に難を逃れようとしてインドへ去って行った。


続いてクーンが行ったのは、バンテン王国の海上封鎖だ。バンテン目指してやってくる船
を遮断してはジャヤカルタへ回航させたから、バンテン王国の経済力は急速に衰退して行
った。封鎖は長期に渡って継続され、さびれて行くバンテンを横目に見ながらオランダ人
の基地となったジャヤカルタの経済力はどんどん栄えて行った。もちろん、ジャヤカルタ
という名称は間もなく返上されてしまうのだが。

クーンの出生地はオランダのホールンであり、かれは征服したジャヤカルタの町をヨーロ
ッパ人が住むための町に作り替えたとき、自分の生地にちなんでニューホールン(Nieuw 
Hoorn)と名付けた。それはクーンが独断で使い始めた名称であり、十七人会の承認は得て
いない。

アムステルダムのカーメルに牛耳られているVOC本社つまり十七人会が、アジアに作ら
れたオランダ人の自治区に一地方都市の名前をつけることを許すはずがないだろう。その
町こそが、これからVOCが行う喜望峰から日本までの広範なエリアを経営するための根
拠地となるのだから。


1621年1月18日に十七人会はその街の名称をバタヴィアとすることを定める命名式
典を開催した。その日から、オランダ人がアジアに設けた完璧なる自治領としてのバタヴ
ィアの歴史が始まる。だが、VOCはこのバタヴィアを植民地として設けたのでは決して
ない。それはVOCの通商と業務管理のためのセンターとして設けられたものであり、こ
の街と土地はVOCという会社が所有する資産と位置付けられた。

そのためにバタヴィアへやってきて住んだヨーロッパ人は基本的にVOC社員や嘱託員ば
かりであり、全員が会社の規定に基づいて総督館の監督下に置かれていた。つまり駐在員
であるために、その私生活までもが会社の監督下に置かれたのである。

たとえVOC社員としてバタヴィアにやってきた者でも、VOCとの契約が満了すれば、
社員という立場から解放される。しかしバタヴィアに住み続けたい者は会社の土地に住ま
わせてもらわなければならない。だから私人として自由にふるまうには困難な状況が長期
に渡って続いた。


バタヴィアの命名に関して、別の説がある。クーンはジャヤカルタを征服してから、その
町をジャカトラ王国(Koning van Jacatra)と命名し、それを公文書に使い始めた。一方、
カスティルの名称をクーンはニューホールンとしたが、十七人会が1621年1月18日
にバタヴィア城(het kasteel van Batavia)という名称に決めたというものだ。

ジャカトラ王国の国王は当然、クーンが務めることになる。それはクーンがVOCという
会社から逸脱しようとしたのでは決してなく、その当時ジャワ島内に存在しているさまざ
まな支配権がすべて王国であったことから、ジャヤカルタをバンテン王国の属領から一王
国にランクアップさせ、バンテンの属領でなくなったことを主張し、同時に周辺の強大な
諸勢力と肩を並べる立場に立ったのだと表明することが目的だったとされている。

言うまでもなく実態は王制でも何でもなくて、VOCが政体を統括する非アジア人の自治
都市だったわけだが、少なくとも、その後の百年間は公的な場面でたいていジャカトラ王
国の名称が使われたそうだ。ところがカスティルの名称としてのバタヴィアがその土地の
地名と混同されるようになり、町の拡大発展にともなって周辺地域をも含めた地名として
定着した、というのがその説の内容だ。

十七人会をクーンは「けちで、臆病で、愚かなヒーレン17」と呼んだそうだが、クーン
は「適切な勇気が勝ち得たこの成果を見よ。」という表現を添えて十七人会にジャカトラ
王国建国についての報告書を提出しているらしい。もしもジャカトラ王国説が真相であっ
たなら、バタヴィアという名称を持った町が誕生した時期は特定できなくなる。[ 続く ]


「バタヴィア港」の全編は
⇒   こちら
でお読みいただけます。