「バタヴィア港(27)」(2017年09月14日)

ジャヤカルタの町を破壊しつくしてから、カスティルを守り抜いたひとびととマルクから
やってきたオランダ人およびVOC関係者が手を携えて、新しい街の建設を開始した。と
りあえずその地名をバタヴィアとしておこう。

バタヴィアの町建設を担ったのは、VOC職員、VOC兵員、ポルトガル人協力者、日本
人傭兵、アンボン人、奴隷、解放奴隷、中国人の職人たち、メスティーソ、そしてオラン
ダ人に協力するスンダ地方地元民たちから成っていた。

オランダ人石工の指揮の下に、奴隷を使って近くの山から石を切り出し、大量の石がチリ
ウン河口の湿地帯に運ばれた。また海からも巨岩やサンゴ礁が陸上に運び上げられた。町
の外側はチリウン川の流れを利用しながら濠を掘って囲んだ上、街全体を頑丈な石の壁で
包むようにした。町の中にも水路を堀り、縦横に道路を走らせて橋をかけた。アムステル
ダムの街に似せて設計されたヨーロッパ人のための町が、熱帯の地に少しずつ姿を現して
いった。


カスティルは川に沿って全長150メートルの規模に拡大され、ほぼ同じ長さで内陸部に
延ばされて四辺形をなし、高さ6〜7.5メートルの堅固な城壁に囲まれ、城壁の四隅に
は塔が外側へ張り出すように作られて川、海、陸地の全方位に睨みをきかせていた。それ
ぞれの塔は最初オランダの諸州の名前で呼ばれていたが、将来の繁栄を予言するかのよう
に南西の塔がダイアモンド(Diamant)、北東はサファイア(Saphier)、南東にルビー
(Robijn)、北西がパール(Parel)という、南海の宝庫を象徴する名前に置き換えられた。

この第二期カスティルは第一期カスティルの9倍の広さを持ち、北は直接海に臨み、西は
チリウン川、そして東と南に濠が掘られて四周を保護され、四辺のそれぞれにゲートが作
られた。waterpoortと呼ばれた北側大門とlandpoortと呼ばれた南側大門の間は290歩
の距離で、また東西方向の幅は274歩だったと記録されている。ランドポートはアムス
テルダム門とも呼ばれ、そこには濠をまたぐ吊り橋がかけられて、対岸の広場を横切って
町に至る道路が作られた。

古い絵図やスケッチ画を見ると、カスティル西側城壁は第一期カスティルの外壁に付けて
設けられたことがわかる。そしてパール塔の端にフェイファ門(Vijverpoort)、ルビー塔
の端にはデルフト門(Delftschepoort) があり、パール塔とダイアモンド塔の間には総督
用のプレイハウスが見られる。

カスティルの中には事務所や倉庫、VOC職員宿舎や兵営、総石作り二階建ての総督館、
参事会役員の官邸、裁判所、教会、兵器庫、診療所、工房などが設けられた。川岸には埠
頭が作られてVOCの船や現地人の船が荷役を行い、荷役人夫がカスティルの前庭や倉庫
を忙しく往復した。


カスティルの南側には、東西1キロ南北1.5キロの壁に囲まれた都市がカスティルを中
に包んでできあがった。その北端はいまのパサルイカンの線、南端はいまのマンディリ銀
行博物館の少し南側と国鉄コタ駅を結ぶ線、西側境界はジュラケン川(Kali Jelakeng)東
岸、東側は現在のチリウン川西岸になる。

このバタヴィア城市の中は直線街路が格子状に交差し、同じように水路が直線で交差して
いくつかのブロックを形成し、広い道路の中央を水路が流れて彫刻の施された石造りのア
ーチ橋が通りを飾った。各ブロックにはオランダ風あるいは中華折衷様式の建物が、大き
な礎石の上にレンガを積み、屋根瓦を葺いたデザインで、石畳の道路に沿って整然と並ん
だ。

この街をユトレヒトと広東の合体したような町だと評した者もある。町を護る防壁はカス
ティルの城壁と同じ厚さを持ち、防壁には22カ所の砲塔が設けられ、カスティルや防壁
以外の要衝にも大口径砲が置かれて、大型砲百門がバタヴィアの町を防衛した。弾薬の備
蓄は潤沢だった。[ 続く ]


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