「バタヴィア港(29)」(2017年09月18日)

クーンは決して軍人ではない。会計学を学び、会計士としてVOC職員に採用された青年
だ。だがかれの真骨頂が会計のデスクワークでなく、優れた戦略とものごとの先を読む洞
察力に満ちた先見性とともに判断力と決断力に支えられた行動力にあることがバンテン駐
在中に会社上層部の目にとまることになる。

VOCは通商で利益を得ることを使命とする会社であり、加えてその使命を実現させるた
めの軍隊を持つことを本国議会が承認していた。だからVOCの現地総督は利潤を追求す
る支店長であると同時に、そのためにどのように軍事力を行使するかという戦略の立案と
遂行の責任を担う軍司令官でもあった。だが本質は支店長なのであり、軍司令官はあくま
でも二義的なものだ。


クーンが着手したVOCの喜望峰から日本に至る一大商圏における、力による独占ビジネ
ス構想を十七人会が一丸となって賛同し支持したわけでもなかった。着実なスパイス通商
を行って利益をたくわえ、出資者への配当を確保していくのが会社の責務であると考える
重役にとって、クーンの構想はまるで賭博であり、巨大な経費支出を強いる危険極まりな
い企画としか思われなかった。事実、1605年から10年までの会社の業績は210%
の配当を可能にしたし、1616年でも75%の配当は確保されたというのに、その後の
アジア支配構想推進のために1620年までに支出された経費は膨大な数字に達し、累積
8千フローリンの赤字が計上されていた。だがクーンの企画のセンターとなるバタヴィア
は既に動き出しているのである。

1623年2月1日、クーンは総督職をピーテル・デ・カルペンティール(Pieter de 
Carpentier)に引き継いで帰国し、ホールンのVOCカーメル室長の座に就いた。カルペ
ンティールは中国貿易を活発化させ、またバタヴィア市街の建設にも貢献した。1627
年に完成したバタヴィア政庁舎はかれの業績だ。しかし現在まで残っている政庁舎建物は
1707年1月25日に第17代総督ヨーン・ファン・ホールン(Joan van Hoorn)が再建
を開始させ、かれを後継した第18代総督アブラハム・ファン・リーベーク(Abraham van 
Riebeeck)のとき、1710年7月10日に完成した。

カルペンティールについては、オーストラリア北部のカーペンタリア湾にかれの名前が残
されている。


クーンがカルペンティールへの引継ぎを終えて帰国し、アムステルダムの本社に帰国報告
に訪れた時、カルペンティールの後任者が早々と内定したのではあるまいか。十七人会は
クーンに説得されて、次の5年間かれを総督に再任する気になってしまったように思われ
る。

実際にクーンの評価は相対立したが、クーンを支持する声が優勢になったようだ。月給は
前回の6百フローリンから1千8百フローリンに跳ね上がり、同額の特別手当が与えられ
た。バタヴィア建設の褒賞として7千フローリン、バンダ獲得の褒賞が3千フローリン、
加えて黄金のチェーンと4百フローリン相当のダマスカスの刀がかれにプレゼントされた。
ところがクーンは十七人会があまりにもケチだと言って、この重役会の眼前で苦情を述べ
たのである。十七人会は結局、褒賞を倍額にした。


1627年3月5日、クーンはバタヴィアに向けてテセルを出港した。その船にクーンが
乗っていることは極秘にされた。それが判れば、その船が無事にバタヴィアに到着できる
保証はなくなったにちがいない。かれは2年前に世間評判の良い家庭の娘、エヴァ・メン
ト(Eva Ment)と結婚しており、その船には妻と赤児そして妻の弟妹が同乗していた。
[ 続く ]


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