「バタヴィア港(30)」(2017年09月19日)

ふたりが結婚したとき、夫は38歳で妻は19歳だった。クーンが妻子を連れてバタヴィ
アに赴いたのは、バタヴィアのVOC職員や兵員がオランダ人の妻を持ち、キリスト教を
はじめとするオランダ文化をバタヴィアに根付かせるための手本にするのが目的だった。
クーンのその方針によってその後、オランダからバタヴィアへ花嫁船が出されるようにな
るが、長続きしなかった。

その辺りの事情は拙作「ニャイ」〜植民地の性支配
http://indojoho.ciao.jp/koreg/libnyai.html
をご参照ください。

その年9月に船はバタヴィアに到着し、クーン一行はカスティルに入った。エヴァ・メン
トとその妹が正式にバタヴィアへ移住した最初のヨーロッパ女性だった。もちろんそれ以
前に、船内に隠されて男について行ったふしだらな女たちがいなかったわけではないが、
そんな女性たちは正式な移住者という勘定の外だった。


クーンは1629年のマタラム王国軍による攻撃の際に死亡する。寡婦となったエヴァは
バタヴィアでの定住を拒んで帰国し、1632年にVOC上級商務員と結婚した。その夫
の死後1646年にまた再婚したが、46歳でオランダで没した。クーンが自分の死後、
妻のどんな行動を期待していたのかは判然としないものの、自分がうち建てたバタヴィア
がオランダ女性に抱かれてオランダの一都市となることを望んでいたのは確かであり、そ
の面からエヴァの行動を見るなら、クーンの希望は裏切られたと言えるかもしれない。

そうは言っても現実問題としては、クーンの理想に押された会社がオランダ女性を熱帯の
コロニーに送り込んで見たものの、かの女たちは現地で贅沢三昧な暮らしを営み、そのた
めの資金稼ぎを夫の双肩に載せ、夫はついつい汚れた金を手にするようになり、寡婦にな
った後は蓄えた財産を持ってオランダに帰国するというのが一般的なパターンになってい
ったから、エヴァひとりをなじるのも酷であるにちがいない。所詮は「男の理想が女にと
っては何なのか」という古今不滅の定理に向かうだろうから、物言わぬに越したことはあ
るまい。

結局会社は、多大な経費を費やしながらたいした効果の上がらないクーンの理想を見捨て
た。現地の駐在職員や兵員にオランダ女性の妻を持たせる方針は取りやめられ、現地の女
性を家庭生活の相手にするよう会社はかれらを仕向けて行った。それがもっとも経費を小
さくする方法であったことは、VOC経営陣が十分に承知している。インドネシアのニャ
イが疑似制度にまで発展していったことの根源がそこにあった。


クーン自身がピーテル・ボットの評したような性格の人間であったことで、その時代のキ
リスト教世界を支配していた倫理に背いた少年と少女が断頭と鞭打ちの刑を受ける事件が
起こった。少女はVOC高官の父と日本人の母を持つ混血児だった。

クーンがバタヴィアをオランダ文化の都市にしようと望み、オランダ人がアジア人との間
に子供を設けることに特殊な感情を抱いていたことは、基本的にプリブミやアジア人をバ
タヴィア市内に居住させない方針が取られたことや、そのオランダとアジアの混血少女を、
父親が同じ会社の高官だというのに、妻の雑用に奉仕する小間使いとして働かせたことな
どに表れている気がする。その少女は名をサラ・スぺクス(Sara Specx)という。[ 続く ]


「バタヴィア港」の全編は
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