「バタヴィア港(31)」(2017年09月20日)

サラ、愛称サルチェの父親は平戸で初代のオランダ商館長を務めたジャック・スぺクス
(Jacques Specx)だった。母親はジャック・スぺクスが囲った地元の日本女性だったが、
父親は娘をオランダ文化の中で育てた。

ネット上の発音サイトや人名情報を調べてみたが、Jacquesの綴りはフランス語のもので
あり、それに相当するオランダ語はJackあるいはSjaakなどとなっており、Jacquesという
綴りが本当にヤックと発音されたのかどうかには疑問がある。ここでは、その自主調査結
果を使わせていただく。

ジャック・スぺクスは1609年から1621年まで初代と第三代の平戸商館長を務めた。
1622年にはバタヴィアの参事会頭兼参事会議員となり、1624年には教会諮問会の
政治コミッショナーに選ばれた。1627年に十七人会は平戸での経営に関する審問を行
うため、かれをアムステルダムに召喚した。

オランダでの滞在を終えたかれは1629年1月、バタヴィアに戻るべくオランダを去っ
たが、途中の悪天候で船が破損したためバタヴィアへの帰着が遅くなった。1929年9
月21日に総督クーンが死去すると、マタラム軍の第二次遠征のさなかという緊急事態に
対処するため、かれはクーンの指揮権を自ら引き継いで困難な状況の処理に乗り出し、バ
タヴィアを守り抜くことに成功した。ただしかれの自主的な総督職の継承を十七人会は喜
ばなかったらしい。1929年から1932年まで、かれはバタヴィアで臨時総督を務め、
第八代総督ヘンドリック・ブラウワー(Hendrik Brouwer)に交代した。

バタヴィアの町の中央を流れるチリウン川を改修させて現在のあのカリチリウンの姿にし
たのは、ジャック・スぺクスが総督在任中のときだった。


サルチェが生まれたのは1617年で、日本を去る父親に連れられてバタヴィアに移った。
1627年に父親がアムステルダムに召喚されたとき、アジア人との混血児をオランダに
入国させるのがたいへん困難だったことから、父親はサルチェをクーンとエヴァの夫婦に
預けた。エヴァはこの10歳の少女の養育を面倒見ようと思ったらしいが、お客様扱いは
されなかったようだ。少女はバタヴィアのファーストレディにあれこれ言いつけられてそ
の身の回りの世話を手伝う仕事を与えられたようだ。もちろん奥様を取り巻いて世話して
いた原住民奴隷並みの扱いがなされたとは思えないのだが、お客様扱いされてまるでプリ
ンセスのような待遇を受けたように解説している話に遭遇すると、わたしは首をかしげざ
るを得ない。クーンがそのようなことを果たして妻に許しただろうか?

もし当時のオランダ人社会で一般に行われていた少女の躾方がそれであるなら、クーンの
特殊な感情をそこに結び付ける必要はないわけだが、社会慣習がそうなっていなかったの
であれば、そのありさまをわれわれはどう受け取ればよいのだろうか?


そのころ、カスティル守備隊の下級兵士の中に、ピーテル・J・コルテンフフ(Pieter J
Kortenhoef)という名の15歳の少年がいた。かれはその美貌と男っぽい愛らしさで大勢
の女たちを魅力のとりこにしていたようだ。独身であろうが人妻であろうが、この少年と
の甘い蜜の時を持った女性は少なくなかったらしい。つまりバタヴィアで、このピーテル
は美貌のプレイボーイだったということのようだ。

守備隊兵士は言うまでもなく、最重要防衛ポイントのひとつである総督館の内部まで入っ
て警備を行う。総督館でクーン夫妻と一緒に暮らしているサルチェがピーテルと知り合う
機会は潤沢にあったにちがいない。12歳のサルチェが送っていた孤独な毎日がピーテル
の姿でバラ色に染まるようになる。だが憧れのピーテルに声をかける勇気はなかなか湧い
てこない。

ついしばらく前まではただの子供だと思っていたサルチェが、いつの間にか女に変わって
きているのに驚いたピーテルは、その魅力を堪能しようとしてかの女を見つめたとき、サ
ルチェの顔がぽっとバラ色に染まったのを目にして、この娘は落とせると思ったにちがい
ない。[ 続く ]


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