「バタヴィア港(33)」(2017年09月25日)

刑の執行が開始されようとしたとき、処刑人チームのひとりが墨をピーテルの整った顔に
塗りたくった。大勢の女を夢中にさせたその美貌を台無しにして、恥辱を与えようとした
のだろう。美貌の女たらしへの憎しみと侮蔑と、そしてひょっとしたら混じっていたかも
しれない嫉妬がそんな形を取らせたにちがいない。処刑人の一刀でピーテルの首と胴が切
り離され、血にまみれた頭が広場の石畳の上に転がったとき、その顔は白と黒のまだら模
様になっていた。特にまだら模様の鼻にひとびとは印象付けられたようだ。

インドネシアでは、女漁りの好きな色事師にhidung belangという代名詞を使う。まだら
模様の鼻という意味だ。KBBIでは「女遊びの好きな男」という語義になっているが、
昨今のメディア報道での用法を見ると性犯罪者の代名詞にされている感がある。ピーテル
・コルテンフフはインドネシアにひとつの熟語表現を遺したと言えるだろう。

余談だが、hidung belangとよく似た熟語にmata keranjangというものがある。mataは目、
keranjangは籠という意味だ。この「籠の目」という熟語も色事師を意味している。イン
ドネシアに多い竹や籐の籠の編目を想像するひともきっと多いにちがいない。それと色事
師がどう結びつくのか、知恵を振り絞ってさまざまな由来を考え出した日本人先輩諸氏も
いらっしゃるようだが、実はこの熟語「mata keranjang」でなくて「mata ke ranjang」
が正確な表記だったということを、レミ・シラド氏が書いている。それがわかれば、こじ
つけた説明はもう無用だろう。


サルチェの父親ジャック・スぺクスがバタヴィアに戻ったのは1629年9月23日で、
クーンはその二日前の9月21日に死亡しており、折しもマタラム軍の第二次遠征による
戦争のさなかという状況にバタヴィアの諸方面からの賛同を得たかれがクーンの後継者と
して総督の椅子に座ったのは9月25日だった。

娘が不倫の罪で刑罰を受けたことを父親はバタヴィアに戻ってからはじめて知った。かれ
がクーンに対してどのような感情を抱いたのかを明らかにする記録は残っていないが、日
曜日に教会へ礼拝に行くことをかれはボイコットするようになったらしい。

バタヴィアの街中で恥と不名誉をさらしたサルチェを、父親はバタヴィアから去らせよう
と考えたようだ。1932年5月20日にVOCの嘱託としてバタヴィアに勤めている3
5歳のドイツ人プロテスタント牧師にサルチェを嫁がせ、翌年に台湾のVOC基地に転勤
する夫とともにサルチェを送り出した。サルチェは二度とバタヴィアに戻らず、1636
年に19歳の若さで台湾の土となった。


ところで、1619年のVOCによるジャヤカルタ征服に先立って、中部ジャワに都を置
くマタラム王国が西ジャワの覇権を握ろうという意欲に燃えている状況にVOCもバンテ
ン王国も神経をとがらせていたことは既述した。当時の中部東部ジャワの状況はどうなっ
ていたのだろうか?

1619年にマタラム王国を率いていたのは後にスルタン・アグン(Sultan Agung)と通称
されたラデン・マス・ランサン(Raden Mas Rangsang)で、かれはパヌンバハン・ハニョク
ロクスモ(Panembahan Hanyakrakusuma)を称号とした。そして1624年にマドゥラ島を
支配下に置いてから、スルタン・アグン・スノパティ・イガラガ・アブドゥラフマン
(Sultan Agung Senapati-ing-Ngalaga Abdurrahman)に称号を変えた。分かりやすいよう
に、最初からスルタン・アグンで通しておく。

1613年に20歳でマタラム王国三代目の王位に就いたスルタン・アグンは、建国以来
の念願になっているジャワ島平定の壮挙に着手する。当時の中部東部ジャワ一帯は、マジ
ャパヒッ王国の遺制である諸領地を支配するアディパティ(Adipati)たちの間で、覇権争
奪の場になっていた。[ 続く ]


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