「バタヴィア港(34)」(2017年09月26日)

順繰りにバトンタッチされた王権をつかんだマタラム王国と、東ジャワのアディパティた
ちの盟主となったスラバヤが天下を二分し、両連合軍が東と西に分かれて戦争を繰り返し
ていた。

マタラム王国が最初からオランダ人を敵視したわけではない。宗教上のミッションを背負
って頭ごなしにイスラムを滅ぼそうとする態度を最初からありありと示すポルトガル人と
は異なり、そんなポルトガル人を倒そうと攻めかかっているオランダ人は宗教よりも通商
を優先している。商業上の利益があればムスリムとの同盟も辞さないオランダ人をわが味
方につけたなら、域内での軍事的優位は己の手中に落ちるだろう。

時代の原理が弱肉強食だったとしても、互いのメリットを利用しあえる関係が作られる例
は限りなくある。マタラム王国にとっては、スラバヤを倒すためにオランダの兵器や軍事
力を利用できないだろうかと考えるのが自然なあり方だった。そしてスラバヤが同じ思惑
を抱くのも、当然だったのである。


マタラム王国二代目の王、スリ・ススフナン・アディ・プラブ・ハニョクロワティ・スナ
パティ・イガラガ・マタラム(Sri Susuhunan Adi Prabu Hanyakrawati Senapati-ing
-Ngalaga Mataram)の称号を持つマス・ジョラン(Mas Jolang)のときに繰り返し行われた
スラバヤ出兵の中で、1613年にマタラム軍はスラバヤ周辺の水田に稔った稲の収穫を
阻むために稲を破壊しつくし、またスラバヤの西隣にあるグルシッ(Gresik)の町を襲って
略奪した。VOCはスラバヤから承認されてグルシッとジョルタン(Jortan)に交易所を設
けていたから、マタラム軍の略奪に巻き込まれてしまった。VOC側はマタラム王国に苦
情を申し入れ、交渉の結果、マタラム側はジュパラ(Jepara)に交易所を開設することをV
OCに許可した。そこにマス・ジョランの思惑がからんでいたのは、言をまたない。マス
・ジョランは更にオランダ人と友好関係を築こうとして、当時マルクに置かれていたVO
C総督館との間で交渉を続けた。マタラムとスラバヤの戦争が激化の一途をたどったため、
VOCは1602年に開いたグルシッの交易所を1615年に閉鎖している。


スルタン・アグンは1621年スラバヤ攻略にVOCを誘う交渉を行ったが、VOCはマ
タラムにもスラバヤにも味方しようとしなかった。1625年、ついに宿敵スラバヤを自
力で降したスルタン・アグンは次のターゲットをジャワ島西部の支配者バンテン王国に絞
る。だが、バンテン王国の手前にあるバタヴィアがどのような態度を取るのかを明確にし
ておかなければ、バンテン出兵はできない。

1628年4月、スルタン・アグンはトゥガル(Tegal)の領主キヤイ・ランガ(Kyai Rang-
ga)をバタヴィアへの使者に任じた。使者はスルタン殿下の口上を伝える。
「マタラム王国が行うバンテン征服戦争に兵器と兵員を参加させなければ、バタヴィアは
滅亡するであろう。」

クーンは珍しく迷った。全ジャワを制覇するであろうマタラム王国に恩を売っておくこと
は、今後の通商や食料調達に大きいメリットをもたらすにちがいない。だが、強大な王国
ができあがるよりも、弱小王国が分裂して互いに争いあう形にしておくほうが、かれらを
支配下に置いて君臨するのに都合がよい。クーンは分割統治原理を選択した。交渉は決裂
し、使者はマタラムへ帰った。その報告を聞いたスルタン・アグンはバタヴィア攻撃を決
意した。[ 続く ]


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