「バイリンガル」(2017年09月26日)

ライター: スエーデンルンド大学博士課程学生、アンドレ・モレン
ソース: 2004年1月10日付けコンパス紙 "Kedwibahasaan"

歴史の過去から人間は、地理的境界であれ言語と文化の境界であれ、それを越えて往来す
るのを好んだ。だから異言語間接触は人類史の(重要な)一部になっている。その延長線
上に、昔から多くの人々が異言語を学んで二重言語者になり、それどころか多重言語者に
さえなっている。

ヨーロッパでは、言語問題一般、あるいは特に二重言語について、欧州連合結成と域内に
おける通行と外国での就労の自由化がその再活性化を促した。フランス人失業者がギリシ
ャへ行って就職活動を行えるようになり、やはり失業中のギリシャ人がスエーデンで職を
探すことができるようになる。たとえその努力が成功しなくとも、かれら移住者は多少と
も訪れた先の言語を身に着けることになる。その状況は更に域外からの移住者、特に定住
するためにやってきた避難民たちにも当てはまる。だからヨーロッパ諸国の間には、純粋
に単一言語で営まれている国はもう存在しないのだ。

アフリカやアジアのたくさんの地域では、二重言語や多重言語は当たり前のことがらだ。
インドネシアもそのひとつである。大勢の国民がインドネシア語と少なくとも一つの地方
語を使っている。オランダ植民地時代には、一部のひとがオランダ語まで使った。(アフ
リカの諸国では、ヨーロッパ宗主国の言語、中でもフランス語がいまだにコミュニケーシ
ョン言語になっている。)


インドネシアでバイリンガルは既に血肉となっているとはいえ、その問題に対してあまり
意識を払っていないように、わたしには見える。子供たちが自然と二重言語者になってい
くため、ケアする必要のないことがらと考えられているようだ。インドネシア語は学校や
マスメディアを通して学び、地方語は家庭で教わる。更に将来はそこに英語やアラビア語
あるいは別の言語が上乗せされていくのである。

ただし実態はそんな簡単なものでない。わたしが観察しそして理解している範囲において
は、インドネシアの子供たちへの言語教育はしばしば一貫性が欠けている。家でも学校で
も、使われる言語は単一になっていない。その状態は決して悪いものではない。幼児期か
らひとつ以上の言語を聞きながら育つのは、子供たちにとってむしろ有益なことだ。ただ
し、言語の使用は一貫的であることが望ましい。

子供たちが達者なバイリンガル者に育つよう提起された最初のメソッドはフランス語で言
うところのune personne, une langue(1902年グラモント)、「ひとり一言語」方式
である。この方式は親が別々の言語者である家庭にとって良いメソッドだ。ジャワ人の父
親は子供とジャワ語で会話し、バリ人の母親はバリ語で同じようにする。そこで重要なの
は、父親も母親も子供と話すときにその言語を一貫的に使うようにし、別の言語を混ぜた
り変えたりしないということだ。そうすることによって、子供は自分が父親あるいは母親
から習得中の言語と他の言語を区別することができる。別のメソッドは、ひとつの家族は
その社会でメジャーな言語を家の外で使い、家の中ではマイナーな言語を使うという方式
を勧めている。

そのメソッドは、たとえば西ジャワ地方に住むバリ人の一家が、家庭内で両親はバリ語を
常用語にし、家の外ではその地元の言語を使うという形で実践できる。更に子供が学校に
上がれば、インドネシア語を家の外での常用語にするのである。このメソッドについても、
その原則を一貫して実行しなければ子供は混乱してしまうだろう。

インドネシアでの問題に話を戻そう。よく目にするのは、インドネシア語あるいは地方語
に熟達できないと嘆く人々の姿だ。そしてもっと頻繁に出会うのは、かれらが話す中でそ
れらふたつの言語を意識しないままごちゃ混ぜにする現象である。その意識されないで言
語がミックスされるというのは、良いことではない。もし意識的にそれが行われるなら、
ある言語での表現に異言語の単語が持つ意味やニュアンスが付加されるという、豊かな表
現が実現されることになるのだが。重要なのは、発言が意識的一貫的に行われることであ
り、それによってコミュニケーション上の混乱が、もっと悪くすれば誤解が、避けられる
のである。

最後に、親に対してもう一度忠告しよう。子供との会話に使う言語は一貫性を持たせるこ
と。子供が将来、二重言語を意識して操れるようにするために。