「バタヴィア港(36)」(2017年09月28日)

バタヴィア城市の東側に作られた城壁は今のチリウン川の西岸にあった。その城壁にはヘ
ルダランド(Gelderland)、ホランド(Holland)、ゼーランド(Zeeland)、フリスランド
(Friesland)、フローニゲン(Groningen)と名付けられた5つの堡塁が設けられ、さらに城
壁の外側を川に沿っておよそ4百メートル南南東に下った場所にホランディア(Hollandia)
要塞が置かれた。そこは今の東ピナンシア(Pinangsia Timur)通りとパゲランジャヤカル
タ(Pangenran Jayakarta)通りにはさまれたエリアで、プラザグロドッ(Plaza Glodok)に
ほど近い。

バタヴィアの急を聞いてバンテンとオンルスト島から救援部隊が駆け付け、兵員2百人が
増強されたので、バタヴィアの兵力は530人になった。バタヴィア側はマタラム軍の糧
食補給線を見つけ出して徹底的に破壊しつくしたため、マタラムの大軍勢は食糧難に陥っ
てしまう。


9月10日、マタラム軍はバタヴィア城市の近くまで進出してきて、障害物を立て、砦を
築き、布陣した。いよいよ総攻撃の構えに入ったようだ。

9月12日、バタヴィア側が先制攻撃をかけた。150人のマスケット銃隊が城壁の上か
ら援護する中、65人の精兵と多数の解放奴隷や中国人がマタラム側の陣地を攻撃した。
マタラム兵40人が倒され、他の3百人ほどのマタラム兵は逃げ去った。解放奴隷は勇敢
に戦い、中国人は手際よく略奪した、と書き残されている。

9月21日、攻城戦に必要な城壁を乗り越えるためのはしごや縄、壁を崩すための諸道具
類、門を打ち破るための巨木などの用意を整えたマタラム軍はホランディア要塞目指して
大規模な攻撃をかけてきた。壁をよじ登って突入する部隊を下から長銃隊が壁の上目がけ
て撃ち続けて援護する。だが、わずか24人の要塞守備隊は決死の防戦を続けて敵の侵入
を防いだ。波状攻撃は一晩中繰り返されたが、要塞の壁を超えることはできなかった。そ
のとき起こったのが、弾薬を使い果たした守備隊が糞尿を武器にしたというエピソードだ。


ホランディア要塞守備隊のハンス・マデレン(Hans Madelijn)軍曹は弾薬が尽きかけたと
き狂気じみたことを考え付いた、と後世にヨーロッパで出版されたこのバタヴィア攻防戦
を描いた書物は物語る。ドイツ生まれでそのときまだ23歳のマデレン軍曹は、部下に肥
壺を持ってくるように言いつけた。

昔のヨーロッパ人の暮らしには、かれらが生活している場所に必ず肥壺が存在する。言い
換えるなら、かれらが生活している建物の中にトイレが存在しないのだ。その事実は昔バ
タヴィア政庁舎だった今のジャカルタ歴史博物館を訪れてみればわかるだろう。建物内に
トイレはないのである。同じことは、もっと南のガジャマダ通りにある国立公文書館
(Gedung Arsip Nasional)にも言えるし、わたしがオーストラリアで数百年を経た歴史遺
産の大邸宅を訪れたときも、同じ事実を発見した。

つまり毎日出てくるものは肥壺に溜め、いっぱいになったら捨てる、というのがかれらの
日常生活だったのだ。バタヴィアの町が縦横に走る運河を作ったのは洪水対策が第一義だ
ったのだが、それの捨て場にも使われるようになってしまった。路上に捨てられるよりは
まだ文明的かもしれない。

しかしその川や運河は、生活用水を得るための水源でもあるのだ。そのために疫病が蔓延
し、バタヴィアはオランダ人の墓場という異名まで取る始末なのだから。総督は肥壺の中
身を捨てる時間を制限した。22時まで捨ててはならず、午前4時以後も捨ててはいけな
い。こうして夜回りが22時の時を打つと、各家庭は一斉に肥壺の中身を運河に流し入れ
るようになった。その瞬間バタヴィアの町に立ち込めた臭気を想像してみていただきたい。
それがバタヴィア生活だったのである。ホランディア要塞のマデレン軍曹にカメラを戻そ
う。[ 続く ]


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