「バタヴィア港(37)」(2017年09月29日)

「弾薬が尽きても、これでまだまだ戦えるぞ。」
そう言うなり軍曹は、その中身を城壁によじ登ってきているマタラム兵の頭上に振りかけ
たのだ。マタラム兵は一瞬身体を硬直させたかと思うと、あわてて城壁を下り始めたでは
ないか。逃げ散っていくマタラム兵の間から“O, seytang orang Hollanda de bakkalay 
samma tay!”という叫び声が聞こえた、とその書物は述べている。それが、インドネシア
のローカル言語がはじめてヨーロッパの書物に活字となって取り上げられた事始めではな
いかという歴史家の発言を付記しておこう。

ちなみにseytangは現代インドネシア語ではsetanと表記され、bakkalayはberkelahiがそ
のような音に聞こえたのではないかと思われるが、deについては想像がつかない。現代イ
ンドネシア語に翻訳するなら、"Oh, setan. Orang Belanda berkelahi sama tahi"となる
だろう。Hollandaは言うまでもなくオランダのことで、ポルトガル人の呼んだNederland
の外名に由来している。インドネシアではholanda, olanda, wolanda, bolanda, belanda
と変化したようだ。その過渡期に日本語の中に定着したものとまったく同じものが見られ
るのは面白い。

要塞外壁一面が糞尿の海となり、壁にとりついていて糞尿の爆弾を浴びたマタラム兵は言
うまでもなく、支援のために壁の近くにいた者たちもしぶきを浴び、離れた場所にいた指
揮官たちの中にもしぶきを受けた者がいて、マタラム軍は結局その状態に耐えられなくな
り、兵たちは自主的に野営地に戻りはじめた。野営地に戻ると、近くの川に飛び込んで身
を清めていたそうだ。ホランディア要塞へのマタラム軍の攻撃を撃退したのがマデレン軍
曹の糞尿作戦だったという正式な戦果判定がなされたのかどうかはよくわからないが、戦
後マデレン軍曹は少尉に昇進した。


9月22日、敵の戦意が低下したのを見たバタヴィア側が反撃に移る。兵員3百人と解放
奴隷および中国人百人が加わって、マタラム軍が敷いた陣構えの中に突入して行った。随
所で凄まじい戦闘が展開され、1千3百人近いマタラム兵が死に、3千人近い者が捕虜に
なった。捕虜の話を総合すると、まだ4千人近い兵力があって、かれらはジャングルの中
で食べ物を探しているそうだ。その日の戦闘でマタラム軍司令官トゥムングン・バウレク
サは戦死し、マタラム軍は四分五裂となった。

ところが10月に入ると、パゲラン・マンドゥラレジャ(Pangeran Mandurareja)の兄弟と
ウパ・サンタ(Upa Santa)およびトゥムングン・スラ・アグラグル(Tumenggung Sura Agul-
agul)率いる第二軍が到着した。マタラム第一軍との戦争で武器弾薬が激減したバタヴィ
ア側は震え上がった。やってきた1万人の大軍勢は第一軍の残兵を集めて1万4千人に膨
れ上がったのだ。

第二軍が攻勢に出てくると、バタヴィア側は押され始めた。マタラム軍はバタヴィア城市
を包囲して、攻撃を継続する。多数のバタヴィア側兵士が死傷して抵抗力が大きく低下し
てしまい、陥落寸前の状況がやってきた。ところが、マルクから大救援部隊が到着したの
である。ジャック・ルフェーブル(Jacques Lefebre)指揮下の大軍船団が2,866名の
兵員と大量の武器弾薬をバタヴィアにもたらしたのだ。VOC兵員420人、VOC職員
350人、一般市民200人、アンボン人を主体とする多数の使用人、という兵力になっ
ていたバタヴィアの戦闘力は、大幅に改善された。

マルクからの救援部隊はその夜、海上に掃討船隊を出撃させ、河口周辺にいたマタラム軍
帆船250隻のうち200隻を破壊した。[ 続く ]


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