「バタヴィア港(38)」(2017年10月02日)

翌日、ジャック・ルフェーブル指揮下の戦隊は、フリゲート船2隻、スコッチ7隻、15
0人の兵士を乗せた輸送船などが川に乗り入れ、陸戦部隊を岸に下ろし、船からの砲撃を
交えてマタラム軍に攻勢をかけた。この水陸両面作戦はうまく行ったように見えたものの、
大混戦の果てに陸上での戦闘はVOC側が押され始めて、最終的にバタヴィア側が敗退し
た。マタラム側は2百人の死者を出し、一方バタヴィア側は数十人が戦死したが、敗走し
たとき百丁を超えるマスケット銃がマタラム側の手に渡った。しかしそれがマタラム軍の
勝利に貢献することはなかった。


ジャック・ルフェーブルがマルクから連れてきた戦闘軍団の中に、日本人傭兵隊もいた。
かれらはある日、押し寄せてくるマタラム軍の襲撃に立ちふさがり、多数の敵を斬り払い
なぎ倒して敵部隊を潰走させるという目覚ましい戦果をあげた。

平戸のVOC商館は物産の交易のほかに、日本人傭兵のリクルートも行っていたのである。
今で言う戦闘員の募集だろう。折しも当時の日本は全国を東西に二分する大戦争が持続的
に行われていた時期であり、劣勢に陥った側に属していた藩の中下級武士たちの間に南海
に新天地を求めようと考える者が出現する環境が醸成されていたように思われる。この時
代はまだキリシタン追放が開始される前であり、傭兵たちは自主的にオランダ人やイギリ
ス人に自己の戦闘能力を売って雇用される道を選択し、海を渡って行った。

1611年にVOCの船は平戸からバタヴィアに68人の日本人を連れてきた。その中に
は職人もいたが、戦闘員も大勢いた。1613年には3百人が運ばれてきた。クーン総督
は平戸のVOC商館長に宛てて、もっとたくさん日本人戦士を送って来い、と指示してい
る。だが1621年のバタヴィア住民明細の中に日本人は30人しか記載されていない。
それは前年に71人がマルクに移されているからだ。日本人傭兵はバタヴィアでなく、む
しろはるかに大勢がマルクで働いていたように思われる。
1632年のバタヴィア住民明細には男48人、女24人、子供11人、奴隷25人の日
本人がいたことが記録されている。それから5〜6年後には多数の日系混血者と肉親が故
国から追放されて、バタヴィアの日系者人口は膨れ上がることになる。


マタラム第二軍はバタヴィアへの攻撃を手控えるようになり、東・南・西に陣地を固めて
包囲する作戦に出た。そして乾季のため水量が減っているチリウン川の流れを一部バタヴ
ィアに入れないようにしてバタヴィアが得られる水量をもっと減らし、更にバタヴィアに
流れ込む水には動物の死骸や汚物を大量に投げ込んで、バタヴィア城市内に伝染病が蔓延
する戦略をマタラム側は採ったのである。しかしバタヴィア側がマタラム軍の糧食補給線
を破壊したため、その工事は緩慢にしか進捗しなかったようだ。

それでもその作戦は完遂され、バタヴィア城市内に疫病が蔓延した。だがそれは諸刃の剣
だったらしく、その作戦遂行を命じられた3千人のマタラム兵士の間にも疫病が流行して
何百人もの死者を出してしまう。

バタヴィア側は苦境に陥っているだろうと予想して、11月27日に4百人のマタラム兵
士がホランディア要塞に攻撃を仕掛けたが撃退され、更に人数を増やして再攻撃したもの
の、多数の戦死者を出し、一部の兵士は逃げて行方をくらましてしまった。マタラム側に
は逃亡兵が増加し始めていた。もう雨季が始まっていたのだ。[ 続く ]


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