「バタヴィア港(40)」(2017年10月04日) 1629年6月20日、ワルガと名乗るマタラム王国の使者が何人もの部下を率いてバタ ヴィアを訪れた。ワルガの口上によれば、「スルタン・アグンは昨年の進攻を謝罪し、バ タヴィアのために米を今トゥガルに集めているところであり、それを脱穀してからバタヴ ィアに運んでくるので、また市を開くことを許可してほしい。バタヴィアとマタラムはこ のように友好関係を維持できるのだから、相互の繁栄のために手を結び、今計画している バンテン征服作戦にバタヴィアも参加し、バンテンを支配下に置こうではないか。」とい う話だった。クーンは色よい返事をしなかった。 ワルガと部下たちは何日もカスティル内に泊まり込み、引き上げる気配を示さない。クー ンが共同軍事行動を拒否したというのに、ワルガはクーンを説得しようとして、連日のよ うにしつこくクーンに接近した。そのうちに、ワルガの部下たちがカスティル内の構造や 兵力を探っている気配が感じられるようになった。 そんなある日、総督諜報隊が放っている諜報員からの報告がクーンに届いた。マタラムは トゥガルとプカロガンやチレボンに米や軍需物資を集積中であり、それは今年バタヴィア に進撃してくるマタラム軍勢のためのものである、というのが報告内容だ。その裏付けを 取るためにワルガの一党を捕らえて締め上げるよう、クーンは部下に命じた。すぐにカス ティル守備隊が全員を捕縛し、尋問が開始される。そしてワルガの部下のひとりが、その 報告が正しいことを自白したのだ。 クーンはすぐに海上部隊に出撃命令を出した。陸戦部隊を乗せてトゥガルを攻撃せよ。突 然襲来したVOC船隊によってトゥガルの港に集まっていたジャワの船2百隻は片端から 沈められ、陸戦部隊は上陸してトゥガルの家々4百軒および米蔵や倉庫などをすべて焼き 払った。部隊はバタヴィアへの帰還途上で、チレボンに立ち寄って同じことをした。そう してから、バタヴィアの軍勢はマタラム軍の進攻を手ぐすね引いて待ち構えたのである。 ウクル(Ukur = 今のバンドン)とスムダン(Sumedang)の軍勢を率いるウクルのアディパテ ィを第一軍、ジュミナ(Juminah = 今のKaliwungu, Kendal)のアディパティを総大将、プ ルバヤ(Purbaya = 今のTegal)のアディパティをその補佐とする第二軍という総兵力1万 4千人の大軍が1629年5月と6月に分かれてマタラムの王都クルタ(Kerta)を進発し た。 色とりどりの軍装と旌旗に飾られた騎馬隊の長い列が先頭を行き、続いて刀槍や斧をきら めかせた兵士の波が絶えることなく続々と進む。さらに数え切れないほどの大砲や重い弾 薬類あるいは軍用物資を積んだ荷車が何台も何台も象に引かれてそのあとに続いた。太鼓 や銅鑼が響き、吹き鳴らされるラッパや笛の音が威勢を盛り立てた。 大軍団は今のヨグヤカルタにあるクルタを出ると北上してプカロガンに達し、ジャワ島北 岸沿いにトゥガル〜チレボンと進んだあと左に折れて内陸部に入り、スムダン〜チアンジ ュル〜パクアン(Pakuan = 今のボゴール)を経てチリウン川沿いに北上した。90日間の 道程を踏破した軍勢は1629年8月31日カスティルからおよそ10キロ南東に離れた 場所に到着して本陣を構えた。そこはチリウン川の本流沿いにある樹木と原野の無人の地 であり、スンダ王国時代から既に開けていたジャティヌガラに近い場所だ。ジャティヌガ ラにはクーンに追い払われたパゲラン・ジャヤカルタの一党が住み着いている。マタラム 軍が本陣を敷いたその土地が今マトラマン(Matraman)という地名で呼ばれているのは、こ の1629年の故事に由来しているためだと言われている。[ 続く ] 「バタヴィア港」の全編は
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