「バタヴィア港(41)」(2017年10月05日)

9月に入るとマタラム軍は、またバタヴィア城市の東・南・西に陣地を構築して包囲した。
土を盛り、木や竹で柵や遮蔽物を作り、塹壕を掘った。更に大量の大砲を並べて砲列を敷
き、バタヴィアに砲弾を降り注いだ。バタヴィア住民はまたカスティルに避難したが、砲
声と空中で唸る弾丸の音に生きた心地もなかったようだ。城市の中を砲弾が荒れ狂い、多
くの建物が破壊されたり燃えたりして大きい損害を出した。

ホランディア要塞に向けて塹壕を掘り進んできたマタラム軍は、9月8日に要塞に対して
集中攻撃をかけた。砲弾の集中攻撃を浴びて、ホランディア要塞は陥落した。マタラム軍
は続いて攻撃の矛先をボンメル(Bommel)要塞に向ける。マタラム兵が中に侵入して要塞の
大門を開こうとしたが、要塞守備隊の一斉射撃を受けて全滅した。ボンメル要塞の守備は
堅く、なかなかホランディア要塞のようには行かない。

後に1636年から1645年まで、それまでの総督在任期間の最長記録を作った第9代
総督アントニオ・ファン・ディーメンは当時36歳で、かれは一隊を指揮してマタラム軍
に対抗し、押し寄せてくる敵兵を押し返す戦果を挙げた。その後、それに倣ってマタラム
軍への攻撃が盛んに行われるようになったものの、戦果をあげた出撃ばかりでもなく、中
には損害の方が大きい戦闘も少なくなかった。戦況はバタヴィア側が押され気味だったよ
うだが、その防戦にバタヴィア側はよく耐えた。


9月20日になって、マタラム軍は突然ウエスプ(Weesp)要塞に総攻撃をかけてきた。大
乱戦となり、最初は押されていたバタヴィア側も時間の経過とともに盛り返しはじめ、最
終的にはマタラム軍を敗走させるのに成功した。大勢のマタラム兵が力尽きて捕虜になっ
た。食糧不足の深刻さがその日の戦闘の結果を左右したようだ。バタヴィア側にも食糧が
潤沢にあったわけではないのだが、はるかに大人数のマタラム側がトゥガルとチレボンの
米蔵を焼き払われているのである。

ところが降参して武器を捨てたマタラム兵は1千人を超えていた。バタヴィア側上層部か
ら現場の部隊指揮官に指令が飛んだ。「マタラム兵は捕虜にせず、解放せよ。」
捕虜の監視と食糧支給がたいへんなことになるのは目に見えているのだ。捕虜になったら
食べ物にありつけると思っていたマタラム兵はきっとがっかりしたにちがいない。


9月22日、マタラム軍は169個の砲弾をバタヴィア城市内に雨あられと降り注いだ。
しかし突入部隊による攻撃はまったく行われなかった。敵の様子を見ていたバタヴィア側
は、応射するのをやめた。どうやら敵は残った弾薬を使い果たそうとしているようだ。

案の定、バタヴィア城市を包囲する形で設けられていたマタラム軍の前線砦はどんどん取
り壊され、それが終わるとかれらはマトラマン方面に撤退して行った。バタヴィア側はそ
の奇妙な事態を幸運だと思ったもかもしれないが、実はそれどころでなくなっていたのだ。
ヤン・ピーテルスゾーン・クーン総督が9月21日の夜に急死したのである。

死因はコレラとも赤痢とも言われ、あるいは急性胃腸炎と述べているものもあれば、乱戦
の中でマタラム兵に首をはねられたというものがあり、さらにはマタラム側の隠密作戦で
連れ去られ、最後に首を取られたという説まで、百花繚乱になっている。インドネシア語
情報の中に、クーンは9月20日に死んだと述べられているものが多いのは、その日行わ
れた総攻撃による乱戦がマタラム兵にクーンを倒す機会を与えたようなイメージを誘って
いるからではないかという気がわたしにはする。そしてその説の結末は、クーンの首がイ
モギリにあるマタラム王家の墳墓の入り口階段の下に埋められ、王家の墓参に来るすべて
の者がクーンの首を足で踏みつけているのだ、という話に行き着くのである。

一方VOCの記録では、クーンは21日夜に病気のため死亡し、翌22日に盛大な葬儀が
催されたことになっている。マタラム軍が撃ち出す砲弾が降ってくる中で、十七人会がそ
の支出額に顔をしかめたほど盛大な葬儀が行われて、以後バタヴィアで行われる総督葬儀
が華美で贅を尽くしたものになる前例が作られた。[ 続く ]


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