「バタヴィア港(43)」(2017年10月09日)

1808年ごろに新オランダ教会が取り壊されてから、そこにはもう教会が建てられなく
なった。バタヴィアの街の中心が既にウエルテフレーデンに移ってしまい、そんな場所に
ある教会に人がやってくることがもはや期待できなくなっていたにちがいない。

その後1857年にジオウエリー(Geo Wehry & Co.)社が土地の使用許可を得て事務所と
倉庫を建てて使っていた。今その地所にある建物はワヤン博物館になっているのだが、そ
の建物は1912年に建てられたもののようだ。

1938年になって、バタヴィア芸術科学ソサエティ(Bataviaasch Genootschap van 
Kunsten en Wetenschappen)がその建物を買い取ってしばらく使用したあと、博物館を管
理する財団に寄贈されて1939年12月22日に古バタヴィア博物館(De Oude Bata-
viasche Museum)としてオープンした。そして最終的にインドネシア共和国に引き継がれ
て、1975年8月13日にワヤン博物館としてオープンしている。


それがこのオランダ教会の歴史だが、バタヴィア政庁舎の庭に埋葬されたクーンはその後、
オランダ教会が出来上がるとその庭に移された。ところが、新オランダ教会が取り壊され
たとき、教会の墓地がどうなったのかを公式に説明している記録が存在しないのである。
ある情報では、墓の多くは他の場所に移されたと述べられているというのに、現在のワヤ
ン博物館にはクーンの墓なるものが存在している。

その一方で、まったく別の場所で見つかったものがクーンの骨だと主張する声もある。
1828年1月24日にオープンしたジャワ銀行(De Javasche Bank)が建設されたとき、
1641年以来その地所に昔からあった病院(Binnen hospital) が取り壊されて整地され
た。そのとき、土中に埋まっていた人骨とボタンが発見され、それは新オランダ教会から
移されたクーンの骨だと主張するひとびとがいた。

その地所はバタヴィア城市の内側で南縁の城壁に接し、カリブサールとの角地になってい
るところで、そこは現在、マンディリ銀行博物館になっている。


クーンの遺体がどこに埋められたのかという問題は、いまだに歴史家の間で議論の的にな
っているミステリーだ。一方、クーンの銅像がバタヴィアのワーテルロープレーンに18
76年建立されたが、その巨大な銅像は日本軍によって鋳溶かされてしまった。1943
年3月7日、銅像を台座から引き下ろす作業が行われ、インドネシア人作業者らが銅像に
かけたロープを引っ張って台座からゆっくりと下ろしているところを映した映像をユーチ
ューブで見ることができる。

クーンの故郷であるホールンでも1893年に故郷の偉人として市庁舎前広場に銅像が建
てられていた。ところが時代が変化してしまったのだろう、マルクのバンダ島でかれが命
じた大虐殺の歴史を知ったホールン市民たちが「偉人としてふさわしくない」「オランダ
人として恥ずかしい」といった批判を加えて賛否両論が盛り上がっていたとき、2011
年8月16日にけん引トラックがクーンの銅像に強く衝突したため像は台座から転落して
大破した。それが意図的なものだったのかどうかについて触れている報道は見当たらない。
1629年9月22日のバタヴィアから大きく離れてしまったから、急いで戻ろう。
[ 続く ]


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