「バタヴィア港(45)」(2017年10月11日)

もちろんこれは当時のジャワ島という、すべてが絶対君主である王国間の覇権争奪の場で
あったからこそ、軍事上の常識になっていたと推測できることだ。バタヴィアのVOCが
ジャカトラ王国を名乗っていたのが事実であるとするなら、ジュミナのアディパティ以下
第二次遠征軍司令部は疑いもなくその常識を適用し、半月間の戦闘の成果を土産にマタラ
ムに帰還したのかもしれない。だが、ジャカトラ王国は看板に偽りがあったのである。

バタヴィアに作られた体制は、絶対君主である王という最高支配者がひとりですべてを決
定する組織でなく、オランダにあるVOC本社の命令を実現させるための会社組織だった。

王国と会社が構造やビヘイビアに大違いであることは、現代人であればわかるだろう。し
かしスルタン・アグンの時代に会社というものの知識と理解を持っている人間がジャワ島
にどれだけいただろうか?ましてや会社を名乗らず、王国という看板を掲げていたのであ
れば、マタラム王国第二次遠征軍司令部がどのような判断を下していくかは想像に余りあ
ることだったにちがいない。


オランダVOCが1619年からバタヴィアの街を築きはじめた時、最初はチリウン川東
岸部の建設から着手され、元々ジャヤカルタの町だった西岸部は更地にされたまま、後回
しにされた。というのも、東岸部にカスティルが建てられたのだから、そちらから手を着
けて行くのが順当なはずだ。

カスティルは濠で囲まれてヨーロッパ風の水城(waterkasteel)になり、北は直接海に接す
る海門(Waterpoort)、南は陸地側に開かれた陸門(Landpoort)が作られて、陸門と対岸の
陸地までは長い橋で結ばれた。カスティルの濠に接する陸地側は街区と濠で隔てられた空
き地で、空き地と街区を隔てていたその濠はオウデマークフラフツ(Oudemarkgracht)と名
付けられたが、今は既に埋め立てられて東ヌラヤン通り(Jl. Nelayan Timur)になってい
る。

カスティルの陸門から空き地を越えて街区に入ると一路南に進むプリンセンストラート
(Prinsenstraat)につながり、その先端はバタヴィア政庁舎(Stadhuis van Batavia)前の
広場入り口に突き当たる。このプリンセンストラートがバタヴィアの儀典道路だったわけ
だ。今ではプリンセンストラートがチュンケ通り(Jl. Cengkeh)に名を変え、チュンケ通
りがジャカルタ歴史博物館前のファタヒラ公園(Taman Fatahillah)に突き当たる形のまま
残されており、地形的な変化は何も起こっていない。

言うまでもなく、この一帯がバタヴィアの治政を率いるひとびとの居住地区であり、今で
言うエリート住宅街に相当していた。後にバタヴィアの一般庶民が住むようになるのはチ
リウン川西の旧ジャヤカルタの町で、北から南に下っていくほどランクが下がった。旧ジ
ャヤカルタの町の南西どん詰まりの地区はオランダ時代末期までKampung Miskinと呼ばれ
ていたそうだ。


街区の建設はそうだったが、バタヴィアはジャヤカルタの港をそのまま引き継いだようだ。
先に述べたように、スンダクラパ港のゲートからまっすぐ南へ下ってくるクラプ通りと更
に南へ一路タマンファタヒラを目指して下るトンコル通り、そして西から運河沿いに東進
してくるパキン通りの三本の道路が形成する三叉路の少し西にある橋の下が当時のチリウ
ン川河口だったのである。

河口の西側は少し海に突き出しており、ジャヤカルタはそこに税関や港務事務所を置いて
通商港湾管理を行っていた。その関門の通過を許された船がチリウン川本流に乗り入れて、
パゲラン・ジャヤカルタの宮殿やパサルに進むことができた。税関を意味するパベアン
(pabean)をオランダ人はパエプヤン(Paep Jan)と呼び、ジャヤカルタの通商港湾管理地区
をパエプヤンの地と称した。[ 続く ]


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