「バタヴィア港(46)」(2017年10月12日)

オランダ人も同じようにしてパエプヤンの地で通商港湾管理を行ったが、防衛機能は強化
した。河口突端には砲台を設け、接近してくる敵船をカスティルと連携して挟撃できるよ
うにした。そこから更に西側の、海に向かって陸地の最北端に当たる場所にも小型要塞を
構築し、それはバタヴィア城市を取り巻く外壁と一体化させられた。その最北端の小型要
塞はゼーブルフ(Zeeburg)要塞と名付けられた。

河口すぐそばの砲台は後に1645年になって第9代総督アントニオ・ファン・ディーメ
ンが更に強力な要塞に改修させたため、かれの出生地にちなんでキュレンボルフ(Culem-
borg)要塞と命名された。このキュレンボルフ要塞が現在ムナラシャバンダル(Menara 
Syahbandar)という名称で観光スポットになっている建物がある場所で、海洋博物館とは
目と鼻の先だ。

1636年に総督に就任したアントニオ・ファン・ディーメンはポルトガルのアジア経営
の柱のひとつだったマラッカを1641年に奪取してポルトガルの南海における勢力を骨
抜きにするなど、バタヴィアを拠点とするVOCのアジアにおける勢力を圧倒的なものに
押し上げて黄金時代を築いた人物だ。かれはヤン・ピーテルスゾーン・クーンに見出され
た有為の青年であり、その薫陶を大いに受けたにちがいない。かれがクーンの再来と謳わ
れたのは、単にかれがクーン型の考え方や行動を示したということだけでなく、かれがク
ーンの抱いた理想の実現にまい進したことまで含めてのものであるにちがいない。

ディーメンはタスマンに命じて南方海域探査を行わせ、タスマンはタスマニア島・オース
トラリア・ニュージーランドの大部分の海岸線を記録して帰った。オーストラリア大陸の
かなり正確な地図がヨーロッパに登場した時、その大陸はファン・ディーメンランドと記
されていたそうだ。


ムナラシャバンダルと呼ばれている建物は高さ12メートルほどの3階建ての四角い塔で、
周辺には350年前の大砲まで置かれて自己主張しているのだから、周りを歩いてみれば
たしかに要塞だったことがわかる。キュレンボルフ要塞が解体撤去されたのは、ダンデル
スが行ったカスティルや街外郭の城壁撤去の一環としてのものだ。というのも、1800
年ごろになると陸地は既に8百メートルほど沖合まで伸び、その先の突堤まで含めてハー
フェンカナールが1キロ以上の長さになっていたのだから、カスティルもキュレンボルフ
要塞も元々持たされていた軍事機能が失われてしまい、アナクロニズムのシンボルと判断
されておかしくない立場に追いやられていたのも確かだろう。

キュレンボルフ要塞が消滅した後、1839年になってその場所に見張り塔(Uitkijk)が
建設された。それが今のムナラシャバンダルだ。パエプヤンの地における通商港湾管理は
続けられており、1キロ以上離れた泊地で入港を待っている船への指示の旗を立て、また
泊地の状況を観察するのに、新たな見張り塔が必要になったにちがいない。港務業務の一
部もこの見張り塔で行われた。

しかし1885年末にタンジュンプリオッ港が完成したことで、バタヴィアのメインポー
トは移転することになる。それに伴って、見張り塔もお役御免になってしまった。その後
暫定的に天体観測に使われたこともあったが、長続きしなかった。


ムナラシャバンダルから50メートルほどの距離に、全長160メートルほどの長い建物
がある。これが海洋博物館(Museum Bahari)だ。この建物は1652年から百年以上もの
間、何度も建築や改修の行われた倉庫群で、オランダ時代は西岸倉庫群(Westzijdsche 
Pakhuizen)と呼ばれていた。この建物は既述のVOC造船所と同じように、分厚いチーク
の板や丸太がふんだんに使われている頑丈で贅沢な建築物であり、その雰囲気に浸るだけ
で往時のVOCの栄華を肌に感じることができる。

バタヴィア時代の初期から、この倉庫に蓄えられたスパイス・茶・コーヒー・銅・錫・布
類などがキュレンボルフ要塞近くまで寄せてきた商船の船倉に積み込まれ、軍船の護衛が
付けられた商船隊がアムステルダムへ出帆して行った。きわめて接近した位置に建てられ
ているのは、その便宜のためにちがいない。日本軍政期には、この倉庫に軍需物資が保管
されていたらしい。独立後もしばらくは国有事業体が倉庫として使っていたが、歴史的文
化遺産に指定されてからは海洋博物館となって1977年7月7日にオープンした。
[ 続く ]


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