「バタヴィア港(47)」(2017年10月13日)

1619年にバタヴィアの街の建設が開始されたとき、チリウン川西岸部の町作りは後回
しにされたが、いくつかの重要な施設はすぐに川沿いに作られた。たとえばVOC造船所
(Timmerwerf der compagnie)は1632年に設けられている。この施設も1809年に閉
鎖された。またチリウン川西岸沿いのバタヴィア城市の中央辺りで、荷役作業を行う場所
が用意されていたようだ。それらの海事のための施設だけは、早い時期に建設されていた。

パエプヤンの地には、船からバタヴィアへ上陸するための上陸場所(Landingplaats)が設
置され、上陸したひとびとが休憩や宿泊するための施設がゼーブルフ要塞の脇に作られた。
その建物は正方形をしていたためにフィルカンツ(Vierkant)と呼ばれたが、迎賓館(Huis 
van Generalen ontvang)とも呼ばれた。そこは元々ジャヤカルタ時代に税関業務が行われ
ていた場所であるため、フィルカンツを税関と呼んでいる記述もある。たしかにバタヴィ
アの税関吏もそこに住んだようだ。

VOCやオランダ植民地政庁の高官たちがバタヴィアに到着すると、時間によるが迎賓館
で一泊し、翌朝仕立てられた馬車でバタヴィア市内に向かった。しかし下っ端職員や兵隊
たちには、はなはだ評判の悪い場所だったらしい。

長い船旅のあと、やっと上陸したというのに、フィルカンツの休憩室や外の付近一帯で長
い時間待たされ、暑い室内にいたたまれずに外に出てみれば湿地帯のよどんだ水が腐敗臭
を漂わせてくる。そしてやっとバタヴィアの街中に入れる許可が出れば、そこから徒歩で
ワーテルロープレーンまで歩かされる始末だ。海洋博物館前からバンテン広場まで歩いて
みれば、かれらの苦情が実体験できるにちがいない。フィルカンツはVOCが滅びるころ
に姿を消したらしい。


キュレンボルフ要塞から南にカリブサール西岸をたどると、1632年に稼働を始めたV
OC造船所がある。造船所の北側、今のカリパキンが流れている場所には造船所の倉庫が
あったが、1981年ごろにそのカリパキン運河を建設するために取り壊された。造船所
の南側につながっている建物は港務事務所で、パエプヤンの地から業務場所がこちらへ移
された。

造船所の更に南側の大きい建物は税関事務所で、1834年にオープンした。多分、港務
事務所の移転と同じタイミングではないかと推測される。この税関はオランダ語でフロー
テボーム(de Groote Boom)と呼ばれ、貨物船で運ばれる貨物の通関と関税徴収の業務を行
った。入国者が手荷物として持ってくるものの通関と関税徴収はクレイネボーム(de Klei-
ne Boom)と呼ばれる役所の業務であり、税関業務でも取り扱う役所が分かれていた。

そこから更に百メートルほど下ると、跳ね橋がある。バタヴィア時代に作られた跳ね橋で
現存している唯一のものだ。コタインタン橋(Jembatan Kota Intan)という美しい名前で
呼ばれているこの橋も、1628年に作られて以来、バタヴィア時代に何度も改修が行わ
れてきた。コタインタンという名前はカスティルの南西に設けられた塔につけられたダイ
アモンドの名称に由来している。東ヌラヤン通り一帯の地区名称が今でもコタインタンと
呼ばれており、それに因んだもののようだ。

この橋はかつてさまざまな名称で呼ばれてきたらしい。最初はイギリス橋(Engelse Brug)
と呼ばれた。ジャヤカルタ時代のできごとを思い出していただきたい。近辺の故事来歴に
ちなんでの命名なのだろう。マタラム軍侵攻で破壊された後の1630年に改修されてか
らはニワトリ市場橋(Hoenderpasarburg)と呼ばれた。近くにニワトリ市場があったという
説明になっているのだが、異説では売春婦のたまり場だったという話もある。

1655年に木の橋から石の橋に変えられて、中央橋(Het Middelpunt Burg)と変わり、
更には女王陛下に敬意を示して名前が変わったりした。Wilhelmina BrugやOphaalsbrug 
Julianaといったように。[ 続く ]


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