「バタヴィア港(48)」(2017年10月16日)

さて、昔のチリウン河口からハーフェンカナールが1.3キロ沖合まで伸びて行ったいま、
ハーフェンカナールの根元部分にある船溜まりにはキュレンボルフ要塞の北側に突き出た
半島ができている。パサルイカン(Pasar Ikan)と呼ばれている地区だ。キュレンボルフ要
塞を含むパエプヤンの地はもともと海に面しており、パサルイカンはその対岸にできた島
だった。

そのはじまりはどうやら、バタヴィアの街が設計されたとき、パエプヤンの地の向こう側
に作られた細長い尺地の先端部分だったのではないかと思われる。つまり雨季の洪水対策
としてバタヴィアの街の外側にいくつか濠を掘り、チリウン川の水流を一部そちらへ導い
て海に流れ込ませるための出口をたくさん作ったのだろう。その濠の出口のひとつがチリ
ウン川河口に近い場所に置かれた。だからパエプヤンの地は東側をチリウン川本流が流れ、
西側からもその濠を通って水が海に流れ込んでくる水量の多い場所にするべく企図されて
いたのではないかという気がする。その濠の向こう側は細長い尺地であり、尺地の突端部
分がチリウン川が運んでくる泥土によって肥大化し、そのうちにつながっていた土地から
切り離されて島になったという推理は外れているだろうか?

19世紀のバタヴィアの地図を見ると、そこはハーフェンカナールの根元にできた島にな
っている。バタヴィア城市はもともと城市全体を包むようにしてスターツバイテンフラフ
ツが作られた。その東側はいまチリウン川、西側はカリクルクッ(Kali Krukut)に名前が
変わっている。南側は埋め立てられてしまった。西側のスターツバイテンフラフツは最初
チリウン河口まで導かれていたのだが、後にそれをまっすぐ海まで導くためにカリバル
(Kali Baru)という名の運河が作られた。そのカリバルの河口がムアラバル(Muara Baru)
だ。

島の南側水路はパエプヤンの地の北側を西進してカリバルに合流するようになり、島の西
側も狭い水路がハーフェンカナールの根元に位置するバタヴィア港につながっていた。そ
れを現代地図と比較するなら、島の南側水路は埋め立てられて島とパエプヤンの地がひと
つになり、パサルイカンは半島に変化した。更にカリバルにつながっていた水路はルアル
バタン(Luar Batang)地区の中ほどまで入ったところで潟になり、島の西側でハーフェン
カナールの根元につながっている。そしていまそれに代わってカリブサール河口とカリバ
ルを結んでいる水路が1981年に作られたカリパキンなのである。


この島は1830年ごろになって東岸とつなげられ、チリウン河口、つまりカリブサール
の河口の目の前が遮蔽されてしまう。もちろん水門が設けられて緊急時には増水した川水
をハーフェンカナールに流せるようにはしてあるのだが、普段は川水を濠のほうに流して
バタヴィア港にチリウン川から流入してくる泥土をそこで遮断するのが目的だったようだ。
つまりバタヴィア建設当初の周辺地勢が大幅に変化してしまった結果、パサルイカンの島
の南側水路はチリウン川の水流の一部を迂回させてそこまで導く濠だった最初の機能が失
われてしまい、カリブサールや東側スターツバイテンフラフツの水を遠くまで伸びた海岸
線まで運び出すためのカリバルに導く役割を背負うようになっていったということだろう。

こうなれば、パエプヤンの地にあったバタヴィア港の人と貨物の上陸や荷揚げ施設は移転
せざるを得ない。更に通商港湾管理機能もパエプヤンの地に置かれる必然性が急低下する。
この時期よりもっと前から、外洋を渡って来た大型船はハーフェンカナールを通ってバタ
ヴィア港まで入ってくることがなくなり、人や貨物は海上ではしけに乗り移らされてバタ
ヴィア港に向かうようになった。バタヴィアのはしけビジネスが黄金時代を謳歌したのも
当然の帰結だったにちがいない。

ランディングプラーツやクレイネボームはパサルイカンの島に移されたが、フローテボー
ムや港務事務所をそこに置くには土地が狭すぎたのかもしれない。既述したように、フロ
ーテボームも港務事務所も1834年にカリブサール西岸に移っている。だがきっと、場
所が離れすぎてはいないだろうか、とだれしも思うにちがいない。[ 続く ]


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