「バタヴィア港(49)」(2017年10月17日)

1846年、その島のキュレンボルフ寄りの位置に魚市場が作られた。ハーフェンカナー
ルに向いてコの字型に開かれた巨大な建物が魚市場であり、それ以来この島はパサルイカ
ンと呼ばれるようになる。そしてこの島とパエプヤンの地をつなぐための橋がパサルイカ
ンの建物のすぐ南側に作られ、既に消滅しているフィルカンツの名前がその橋に与えられ
た。この橋にも、濠を通過する船のために一部分に跳ね橋が設けられていた。

フィルカンツブルフ(Vierkantsbrug)と呼ばれたその橋も、19世紀終わりごろに取り壊
されている。もちろん、パサルイカンの建物も時代の流れの中に姿を消した。

パサルイカンがその島に設けられたことで、ランディングプラーツとクレイネボームは1
848年2月1日にハーフェンカナール東岸に移転した。そこが現在の観光スポット「ス
ンダクラパ港」の埠頭がある場所である。更に1852年6月1日には、港から離れてい
たフローテボームもその場所に移転し、税関倉庫も建てられて、輸出入貨物の通関と徴税
がそこで行われるようになった。いまスンダクラパ港と呼ばれているあの場所は、このよ
うにして歴史の幕を開いたのだ。


海からバタヴィアへやってくる人の動きがハーフェンカナール東岸で盛んになると、カフ
ェやホテルのビジネスチャンスが高まり、そして東岸からバタヴィア市内に向かう交通が
整備される。クレイネボームのすぐ傍に1849年、スターツヘルベルフ(Stads Herberg)
がオープンした。英語に訳せばシティインだ。やって来たひと、去っていくひと、出迎え
の人、見送りの人、それぞれがそこで飲食したり宿泊した。

オーナーはオランダ人で、1820年ごろからそこで小さい宿屋を開いていたが、クレイ
ネボームが移転してきたためにビジネス拡張をはかり、それが大当たりとなった。オーナ
ーは1852年にそれを売却してバタヴィア市内中心部のレイスウェイク(Rijswijk)にあ
るネーデルランドホテル(Hotel der Nederlanden)を買い取り、そのホテルは19世紀後
半にバタヴィアを代表するエリートホテルの地位にのし上がった。しかし20世紀に入る
と、オテルデザンド(Hotel des Indes)にその地位を取って代わられることになる。ネー
デルランドホテルは1940年代ごろまで存在していたようだが、インドネシア共和国独
立後はレイスウェイク地区全体が政府機関に変えられて行ったため、姿を消した。

1860年代のスターツヘルベルフ黄金時代、ハーフェンカナール東岸に商業施設が建て
込んでいた雰囲気はあまりなく、このスターツヘルベルフはどうやら独占あるいは寡占事
業を謳歌していたように見える。宿の表には客待ちの馬車が多数たむろし、クレイネボー
ムから直接市内に向かう客や宿から市内に向かう客を拾っていた。

しかし1885年にタンジュンプリオッ港がオープンすると、ハーフェンカナール東岸に
あった港湾施設のすべてが新港に移転してしまう。黄金時代は過ぎ去ってしまい、このエ
リアが人通り繁華な消費地区であったことは昔語りとなった。代替わりしたオーナーはそ
の建物を華人系ビジネスマンに売却し、新しいオーナーはその建物を倉庫として使った。
そして最終的にその一帯の古い建物は1949年に撤去されてしまったのである。

ハーフェンカナール東岸にある港の諸施設やスターツヘルブルフの前を通っている道路は
カナールウエフ(Kanaalweg)で、南端にある橋を渡ってカスティルプレインウェフに入り、
アムステルダム門(Amsterdamse Poort)をくぐってバタヴィア市内に向かった。いまカナ
ールウエフは観光スポット「スンダクラパ港」入口ゲートから橋までがクラプ通り、ゲー
トから埠頭に沿って北上していく道がマリティムラヤ通り(Jl Maritim Raya)となってい
る。カスティルプレインウエフは今のトンコル通りだ。[ 続く ]


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