「バタヴィア港(50)」(2017年10月18日)

アムステルダム門はアムステルダムスフラフツ(Amsterdamse gracht)とカスティルプレイ
ンウエフおよびプリンセンストラートの十字路に設けられたため、アムステルダムの名前
が冠せられた。アムステルダムフラフツは今の東ヌラヤン通りで、ある時期にオウデマー
クフラフツから名前が変更されたらしい。

アムステルダム門の由来は第二期カスティルの時代にさかのぼる。ダンデルスがカスティ
ルを撤去させたものの、この門は生き延びて、その後何回か作り直されている。門自体は
ヨーロッパ風の凱旋門を小さくしたようなデザインで、両脇にウイングが作られ、さらに
フェンスが伸びていた。正面の左右には軍神マルスと女神ミネルヴァの像が飾られていた
が、日本軍政期に鋳溶かされたようだ。

1869年にバタヴィアを馬車トラムが走るようになり、ルートはカナールウエフの港近
くが終点で、そこからプリンセンストラートを下ってスターツハイスプレイン(Stadhuis-
plein)を抜け、ニューポーツストラート(Nieuwpoort straat = 今のJl Pintu Besar)を経
てモーレンフリート(Molenvliet)脇の道(今のJl Hayam WurukとJl Gajah Mada)を通っ
た。必然的にアムステルダム門を通過しなければならなくなり、門の両側ウイングとフェ
ンスが除去された。

最終的にモータリゼーションがジャカルタを訪れると、この由緒ある門は邪魔者になって
しまい、インドネシア共和国が1950年に取り壊して平らにした。今では跡形もない。


カナールウエフからカスティルプレインウエフへは濠をまたぐ橋を通る。その橋は現在ク
ラプ通りとトンコル通りをつなぐ橋のあるちょうどその場所に位置していた。規模はもっ
と小さいが馬車が通るには十分な広さだ。その橋もオランダ式の跳ね橋で、濠を通る船の
通行を可能にしていた。

この橋には公式な名称が他にあったのだが、オランダ語でスヘイツブルフ(schijtbrug)、
インドネシア語訳はジュンバタンベラッ(Jembatan Berak)、日本語になおすと「くそ橋」
と一般に呼ばれていた。なぜ「くそ」なのか?

先に述べたように、昔のヨーロッパ人の日常生活は排泄物の臭いの中にあったようだ。宮
殿や豪邸の中にトイレが作られず、出たものは大自然の中にそのままお返ししていたよう
だから、必然的に臭いは四方八方に漂うことになる。トイレが作られて排泄物処理に関す
る文明化が起こるのは19世紀になってからであり、もっと昔からヨーロッパで香水産業
が発展したのがその臭い対策だったという事実は、われわれをうなずかせずにおかないだ
ろう。

マタラム軍進攻の際のホランディア要塞におけるハンス・マデレン軍曹の行動とそれに対
するマタラム兵の反応を見比べてみるなら、排泄物に対する両民族の感覚の差がなんとな
く見えてくるような気になるのは、わたしだけではあるまい。「くそ橋」は単なる言葉の
上の誤解が招いたものだったらしいのだが、排泄物処理の文明化が進み始めたヨーロッパ
人が「くそ」という言葉で呼んだということにわれわれは興味を惹かれるのである。

この橋を越えれば港。千里の波涛を越えて愛するひとが旅立つところ。バタヴィアのロマ
ンチストはその橋を「旅立ち橋」オランダ語でアフスヘイツブルフ(afscheidbrug)と呼び
始めたそうだ。その愛称が人口に膾炙するようになり、中には省略して呼ぶ人間が現れる。
スヘイツブルフという発音を聞いたオランダ人の中にはschijtというスペルの単語を思い
出してその意味を解釈した、というのが「くそ橋」の由来だそうだ。[ 続く ]


「バタヴィア港」の全編は
⇒   こちら
でお読みいただけます。