「プリブミ論争(1)」(2017年10月23日)

ライター: ガジャマダ大学国政基本法、メルボルン大学人文学部ロースクール教授、デ
ニー・インドラヤナ
ソース: 2017年10月20日付けコンパス紙 "Pribumi dan Tenun Keindonesiaan"

ときどき、わたし自身が自分に尋ねる。「このお前と言う人間は本当にアスリなのか?
そう、お前はインドネシアアスリだと思われている。」しかしわたしは間違いなくアスリ
なのだろうか?わからない。皆さん、自分の血統から、自分がアスリなのかアスリでない
のかを示せられますか?わたしはそれがわからない。皆さん、わたしはアスリだと思われ
ていても、10%か5%か、あるいは2%か、華人系の血がこの体の中に流れている可能
性はあるのです。 ー 1963年3月14日インドネシア国籍協議会第8回全国会議開
会時のブンカルノのスピーチ

アニス・バスウェダン都知事のスピーチのあと、また「プリブミ」の語が論争トピックに
なっている。なぜその言葉がきわめてセンシティブで差別的な意味を表しがちなのだろう
か?国政基本法の長い歴史とその過程から見た回答を下記しよう。
先住土着のひとびとと見られているオーストラリアのアボリジニーや米国のインディアン
のように、インドネシアに最初単一のアスリ種族がいたわけではない。インドネシアアス
リの種族がかれらなのだ、と言える種族はいないのである。


< 植民地政策 >
「プリブミ」というコンセプトがあったとしても、その言葉がインドネシアのある一種族
を指すわけではない。「プリブミ」は分割統治方式でわが祖国を征服したコロニアリズム
から生まれた。1854年のオランダ植民地法はインドネシアの住民を三つのカーストに
区分した。第一級人種は白色人種であるヨーロッパ系。第二級は中華・アラブ・インド系
を含む東洋異人(Timur Asing)層。最下層の第三級がインランダーで、「プリブミ」とい
う訳語が当てられた。

それがオランダ領東インド社会の中に起こった法的な人種差別の発端だ。1925年にオ
ランダの法改正が行われても、政体と国政に関する基本法としてのIndische Staatsrege-
lingの第163条でその三カーストの適用が続けられたことで、人種差別政策は維持され
た。

1920年代にはインドネシアという語が盛んに用いられるようになって独立闘争のシン
ボルとされ、インドネシアというひとつの祖国・民族・言語という宣言に結実した192
8年の青年の誓いで頂点を迎えた。植民地政府にとっては、オランダ領東インド住民はイ
ンドネシアと呼ばれるよりもインランダーのほうがぴったりフィットした。というのは、
インランダーは蔑称のニュアンスが濃いものなのであり、インドネシアという名称は体制
転覆の意味合いが匂い立ってくるような植民地政府への反抗や叛乱を示す言葉ととらえら
れたためだ。

独立闘争時代には、よりインドネシア的な印象を感じるためにプリブミの語が好まれた。
そのヒロイックな心情が1945年憲法全文の検討の中で、第6条(1)項の「大統領は
インドネシアのアスリの者である」という条文に結実した。その規範における「アスリイ
ンドネシア(Indonesia Asli)」の法史的意味は、「プリブミ」ということだ。つまりヨー
ロッパ系であれ、東洋異人系であれ、そのカテゴリーに属す子孫たちはインドネシアの大
統領になれないのである。おまけに最終的に削除されたものの、その条文の検討には最初
イスラム教徒(beragama Islam)の条件さえ付けられようとした。イスラムのニュアンスに
包まれた「ムカディマ(Muqaddimah)」の語の置き換えとイスラム法適用に関する七語をジ
ャカルタ憲章から外すことがイスラム教徒の語句削除と同時に行われた。[ 続く ]