「pemimpinとpimpinan、その2」(2017年10月25日)

ライター: ワヤン演者、言語探究者、スジウォ・テジョ
ソース: 2009年5月15日付けコンパス紙 "Pemimpin KPK"

アンタサリ・アズハルが警察に逮捕されてからKPK(汚職撲滅コミッション)の統率
(kepemimpinan)に関する議論が高まっている今、法的見解の外側でKPKのpemimpinanあ
るいはその実体が何であれ、言語上の見地からそれを眺めて見ることができる。これまで
アンタサリ・アズハルはしばしばKPKのpimpinanと呼ばれてきた。われわれは往々にし
てpimpinanとpemimpinを等号で結んでいる。

本当は、その二種類の派生語をわれわれは区別することができるはずだ。pimpinanとは
pimpinされる側あるいはされる人である。反対にpemimpinとはpimpinする側あるいはする
人を指している。両者は同じ基語から派生したものだが、ひとつは基語に接頭辞のpe-が
付けられ、もうひとつには接尾辞の-anが付いているのだ。


pimpinという基語を統率という機能を含んでいる別の言葉に置き換えてみればはっきりす
るだろう。たとえば、asuh, arah, didik, bimbingなどに。普通われわれの常識は、即座
にその違いを見分けるにちがいない。pengasuhとasuhan、pengarahとarahan、pendidikと
didikan、pembimbingとbimbinganを比べて見るがいい。

一番明白なのはarahの例だ。テレビ番組のpemimpin programは通常pengarah acaraと呼ば
れており、その用法は間違っていない。arahan acaraとはシナリオのことだ。映画の世界
では、pengarahはsutradaraと呼ばれている。pengarahのトゥグ・カルヤにとって、映画
スターのスラムッ・ラハルジョやクリスティネ・ハキムはarahanなのである。

礼儀知らずな人間に腹を立てて、こんな人間を作ったのはどこの誰なのかと問いただすと
き、われわれの口を衝いて出る小言は「Kamu itu asuhan siapa, didikan siapa?」とな
るのが普通であり、「Kamu itu pengasuh siapa, pendidik siapa?」という文章にはなら
ない。その趣旨で「Kamu itu pimpinan siapa (siapa yang memimpin kamu)?」という表
現がなされることも起こり得たのだが、今ではその表現を耳にすることもありえなくなっ
てしまった。pemimpinとpimpinanが混同される誤用が世の中に定着してしまったことの影
響がそれだ。


アンタサリ・アズハルが逮捕されたあと、KPKに残っている4人の人物についての法的
議論で「かれらはpimpinanでない」と言われている。そりゃ当然だろう。言語上の問題と
するかぎり、かれらはpimpinanでなくてpemimpinなのだから。pimpinan KPKというのは、
KPKに統率され、管理され、動いているひとびとの側を意味しているのだから。かれら
は個人として、あるいは組織として、汚職撲滅の一翼を担っているのである。

pimpinanとpemimpinの混用という世間に定着した誤用は実のところ、既に長い歴史を持っ
ている。たとえば政党の組織機構にあるDPPとはDewan Pimpinan Pusat(中央指導部)
の頭字語とされているが、正しくはDewan Pemimpin Pusatとされるべきだ。

同じようにRapimnasはRapat Pemimpin Nasional(全国指導部会議)の略語とされるべき
である。RapimnasがRapat Pimpinan Nasionalの略語だというこれまでの常識に従うのな
ら、それは全インドネシア国民が参加する公開大集会の形を取ってしかるべきだ。全国民
がpimpinan nasionalなのであって、pemimpin nasionalはまた別物なのだ。

法的側面だけでなく言語上のポイントもKPK統率問題の議論の中に採り上げられるとよ
いのだが・・・・