「プリブミ宗教国家(1)」(2017年10月26日)

アニス・バスウェダン新都知事が就任スピーチでたちまちレーシズムを煽る発言を露わに
した。とは言っても、そのまま聞けば知らぬ間に通り過ぎてしまいそうな文章が語られた
のは言うまでもない。ただ、「プリブミ」という単語がひとびとの耳に引っかかったのは
事実であり、その言葉自体がインドネシアで既にレーシズムを象徴する語彙の一つになっ
ていたのだから、スピーチの文脈はかれにとって何でもよかったのではあるまいか。文章
はこうなっていた。

「われわれプリブミはかつてみんな、打ち負かされ、虐げられた。今やわれわれは独立し
ており、自分の国の主となる時が来ている。このジャカルタがマドゥラのことわざのよう
になってはならない。アヒルが産卵し、ニワトリが孵化させる。」

それはコロニアリズムに抵抗してインドネシア人が自分の国を自らの手に握るのだという
ことを主張するコンテキストであると新都知事側は説明しているのだが、独立後72年が
経過した今になって、そのアナクロニズムはいったい何なのか?既に軍事力で征服され、
土着民が虐げられた時代は過ぎ去っており、独立国家という形式を備えた以上、そのあと
は国民の意思の問題になるのではないのだろうか?外国人がネオコロニアリズムを引っ提
げて経済的文化的な支配をするために独立国の国民を手先に使おうとする構図が後を絶た
ないのは分かり切ったことであり、その国その国民がそれにどう対処していくのかを決め
るのは自由意志の問題になっているはずだ。今更、外国人やネオコロニアリズムをいくら
非難したところで、「だったら国民教育をしっかりやれ。」と見下げられるのがオチでは
あるまいか?国の指導者層が自国民をそこまで主体性のない人間扱いしていれば、そのも
のズバリの形骸化独立国になっていくだろう。


新都知事の就任スピーチと時を合わせて都内各所に「Pribumi Muslim」と書かれた垂れ幕
が出現したのを合わせて考えるなら、「プリブミが打ち負かされて虐げられた」時代とい
うのがバスキ・チャハヤ・プルナマ都知事の時代にオーバーラップしていくほうが自然な
流れと言えないだろうか?ムスリムが戴いてはならない非ムスリム首長の下で、ジャカル
タのムスリムは忍従を強いられてきたのだから。事は行政の良し悪しなどでなく、はるか
に観念的な次元の話なのである。

あのときの都知事選挙がどのように進展して行ったかを思い返して見ればよいだろう。下
の記事がその参考に使えるかもしれない。

「悲運の印尼華人」
2016年12月12日から22日まで9回連載
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[ 続く ]