「再びke-とpe-の違い」(2017年10月31日)

ライター: 文司、デポッ在住、アヤトロハエディ
ソース: 2003年3月29日付けコンパス紙 "Persatuan dan Kesatuan"

政治談議の中でひとは、「persatuan」と「kesatuan」の語義を問題にする。「persatuan」
という言葉が連邦的ニュアンスを持ち、「kesatuan」には一体的な響きがあるという見解
が存在している。ひとつ確実なポイントとして、1945年憲法の中にはその両者が記載
されているのである。「persatuan」の語は憲法前文と解説に登場し、「kesatuan」の語
は憲法本文と解説に見ることができる。

憲法前文の第4パラグラフには次の文章が見られる。
...yang terbentuk dalam suatu susunan negara Republik Indonesia yang berkedaula-
tan rakyat dengan berdasar kepada:...persatuan Indonesia...

解説には次のように表明されている。
Dalam pembukaan itu diterima aliran pengertian negara persatuan...Negara, menu-
rut pembukaan itu menghendaki persatuan, meliputi segenap bangsa Indonesia selu-
ruhnya. Inilah suatu dasar negara yang tidak boleh dilupakan.

「kesatuan」の語は第1条(1)項に、
Negara Indonesia ialah negara kesatuan yang berbentuk Republik.
と記され、解説にはまた、

Menetapkan bentuk Negara Kesatuan dan Republikと書かれている。


更にnegara kesatuanの意味が第18条の解説にこう述べられている。
Oleh karena Negara Indonesia itu suatu eenheidsstaat, maka Indonesia tak akan 
mempunyai daerah di dalam lingkungannya yang bersifat staat juga.
オランダ語のeenheidsstaatはnegara kesatuanを意味している。

われわれの国家生活に関わる面で「persatuan」と「kesatuan」の語義が異なっているの
は、上の引用文から明らかだ。「persatuan」は国家原理に関わるものであり、
「kesatuan」は国家形態に関わっている。言い換えるなら、「persatuan」は内容に関す
る領域に置かれており、「kesatuan」はその内容が身にまとう皮や外殻のような分野に置
かれているのである。


「persatuan」と「kesatuan」の本質的な違いについてインドネシア科学院のメリー・タ
ン博士が示したたとえが、その理解のための大いなる助けとなるに違いない。それによれ
ば「kesatuan」とはガドガドのようなものだそうだ。カンクン菜・モヤシ・豆腐・ソース
・ジャガイモ・その他いろんなものが盛られている。それはひとつのものになっているの
だが、われわれはそこにあるそれぞれのものを個別に把握できる。カンクン菜が嫌いなひ
とはそれをより出して、食べないで済ますこともできる。他の人も、モヤシや豆腐をその
ようにすることができる。ただひとつそれができないのは、それらの諸材料をひとつに結
び付けている(pemersatuとしての)ソースだ。

一方、「persatuan」というのはケーキのドウのようなものだ。そこに卵・小麦粉・砂糖
・その他のものが混ぜ込まれていることをわれわれは知っていても、卵や小麦粉をそのド
ウからより出すことはできない。すべてが溶け合ってひとつのものになっており、元の材
料とは異なる新たな別のもの、つまりケーキドウになっているのだ。好きなら全部を食べ
るだけだし、嫌いな材料がそこに混じっていればすべてを食べないでおくしかない。


「persatuan」が国家原理に関わる機能であることに関連付けるなら、国家原理を絶対的
なものとして受け入れるか、あるいは拒否するか、ということ以外に選択の余地はない。
国家形態に関わる機能である「kesatuan」はそれと異なり、たとえば連邦的とか統一体と
いうような選択の余地がある。今日現在に至るまで、国家原理としてのpersatuan Indo-
nesiaに関する論争がなされたことは一度もない。これまで繰り返し起こって来たのは、
統一国家なのか連邦国家なのかというような国家形態の選択に関する論争なのである。

その論争へのヒントとして、次のことを思い返してみてはどうだろうか?アメリカ合衆国
が連邦国家だというのは本当なのだろうか?1945年憲法第18条が言うような国家の
中に国家がある状態があの国にも存在しているのだろうか?

あの国にあるのは州(negara bagian)であり、インドネシアで知事が統括している州(pro-
vinsi)と同等のものなのだ。ただ自治権が広範に与えられているとはいえ、それでさえ国
の法規によって統制されている。

たくさんのnegara bagianに分かれてはいるものの、アメリカ合衆国(united statesであ
ってfederated statesではない)が分裂し、各negara bagianが個々に独立国になろうと
するような兆候は何もない。

わが民族が直面している重要な問題は、統一国家(negara kesatuan)から連邦国家(negara 
federasi)に移行するかどうかといった国家形態に関することでなく、1945年憲法前
文の精神と意思に即した国家運営とそのシステムを再構築することにあるように思われる。