「われわれって、いったい何者?(終)」(2017年11月09日)

ビンネカとは(海洋)文化/文明が結び合わせてインドネシアというひとつの溶融体(イ
カ)となった諸要素のことを指している。それがわれわれインドネシア人・インドネシア
民族の絶対条件なのである。

自分がミナン人・ブギス人・マナド人・スンバ人だとしよう。いや更に、数十年・数百年
・数千年も代々住み着いてきた華人系・インド系・アラブ系であるとしよう。本当のとこ
ろは、その文化的溶融体が自分なのであり、住み着いてきた土地におけるアスリ住民、す
なわちプリブミなのである。自分の名前がウチョッ、オトン、トレ、あるいはアセン、ア
フメッ、アディグンであっても、かれにとっての地元の土地がバンドンでありジャカルタ
であるなら、かれはスンダのプリブミでありブタウィのプリブミなのだ。かれが居住した
場所のコミュニティにある慣習・伝統・宗教等々を含めたあらゆることがらが、自己のア
イデンティティと性格の形成に関わっているのだから。

ミナンのことわざ「Di mana bumi dipijak di situ langit dijunjung」(直訳すれば;
大地を踏まえるところ、そこで頭上に天を戴く)はこの国の他の諸種族にとっても有効な
一般的モットーだ。なぜなら、この国の島々に住む諸種族の中に移住者のいないものはほ
とんどないのだから。ここで言う移住者とは、ミナン人が哲学や手引きに従って行うラン
タウのような、生計・安寧・成功を求めて異郷に移住し、そこで暮らす者を意味している。

だから、われわれの国の各地にあれほど昔から居住していた華人やインド・アラブ・ペル
シャ人どころか、もっと後になってやってきた諸民族がこの国に住もうと望み、あるいは
国民になろうとしたとき、かれらは上述の海洋文化と慣習に従わざるを得ないのである。
そして居住地で複合文化の渦の中に巻き込まれたとき、他の諸種族民と同じように自然体
で貢献するようになる。われわれもかれらをプリブミと呼んでおかしくない。もしどうし
てもその言葉を使いたいのであれば。

そうなれば自分と同じ国の別種族でしかないというのに、「わが町はよそ者だらけだ。」
と大声で叫びまわる社会的有力者などいなくなるだろう。その種のローカルショービニズ
ムは滑稽であるだけでなく、自分自身の歴史的現実から遠くかけ離れている。叫びまわる
人物がその土地にとってのよそ者だったということは、大いにあり得るのである。[ 完 ]