「デリリウム レリジオスム」(2017年11月13日) ライター: バリ在住芸術研究家、ジャン・クトー ソース: 2017年8月6日付けコンパス紙 "Delirium Religiosum" インドネシアは悪化するときわめて危険な伝染病である「デリリウム レリジオスム」 (宗教的せん妄)に襲われている。ラテン語名称を使ったらきっと学術的に見えるでしょ うが・・・。 その症状はさまざまだが、ほとんどすべての患者に見られる共通の特徴がある。かれらは、 自分が宗教的であり、その上でもっとずっと宗教的になりたいという強迫性障害に取りつ かれていて、それゆえ自分が信奉するものに関連していると思われるものなら何であれ、 自分のアイデンティティシンボルとして引き被ろうとする態勢にある。言葉・呼称・あご ひげの手入れ方法・衣服の着方・銀行で開く口座の種類など、さまざまだ。 それでもってかれらは自分が選ばれたグループに入ったと感じ、憧れの天国の扉が大きく 開かれるだろうことを確信する。時にその妄想には悪だくみが混入し、コルプシ容疑者が 突然宗教的な衣装を身にまとったりするのである。 宗教的せん妄は今や一般的な社会シンドロームと化し、信仰の境界を問わずすべてのグル ープに伝染していく。重度のタイプもあればソフトなものもあって、症状はまちまちだろ う。すべてのグループがハンマー候補生を作り出しているわけではないのだ。ただし現象 的には似通っていて、無秩序に広がって行く潜在性を秘めている。 Eメールやワッツアップでのメッセージの結句に多くの友人たちがますます頻繁に使って いるGBUのアクロニムをわたし自身も使いはじめたとき、わたしはその危険性を覚った。 見かけは親睦的で簡潔で、威厳があり、「チャオ」のよう。素晴らしい。それでわたしも それをかき抱いた。イカシてるように見られようとして、わたしもそれに倣った。ところ が、馬鹿だった。間違いだった!そうと思わずにわたしがGBUと書くたびに、わたし自 身もこの忌むべきデリリウムレリジオスム症状を示し始めていたのだ。 運良くも、GBUは特定宗教的グループのアイデンティティシンボルとして機能している ことを、わたしは早急且つ迅速に理解したのである。かれらにとってプラットフォームは 英語(GBU=God Bless You)であり、アメリカがメッカだったのだ。だから言葉の面で ますます中東に傾倒するグループがあれば、やはり言葉の面でますますアメリカ寄りにな るグループがあり、それはもちろん銭勘定面でも同様だ。面白いだろう?そして恐ろしい ことに、デリリウムレリジオスムはその宗教性をますます高め、中東寄り言語衣装グルー プは英語寄りグループとの対決姿勢を強めて行くのである。その果てにあるものは、軽い 現象だったものが凄まじいデリリウムレリジオスム現象に発展してしまうことだ。第一グ ループは集団自殺の決意、第二グループは容赦ない爆弾攻撃の確信といった悪夢のような 結末。そんな想像はやめたほうがいいだろう。希望がそれてしまったことをお許し願いた い。 今わたしはデリリウムレリジオスムがバリにまで広がってくることを心配している。軽い バージョンだが、初期症状はもう見られるのだ。たとえば礼拝において、バリ語やカウィ 語の解釈はサンスクリット語に由来するものに変えられつつあること。食事パターンにも 変化が起こっている。グルジと呼ばれるひとびとの影響で、ベジタリアンが増加している。 軽度の症状は、とりあえずそんなところで十分だろう。 グローバリゼーションと資本主義化に襲われた生活の中で起こっているパターンの動揺に 対する反応がこのファンダメンタリズムであることは疑いがない。しかしながら、宗教の 本質よりも外見を重視する反応や、政治アイデンティティを精神性より上位に置く反応は 適切なのだろうか?違う!疎外リスク、つまり差異を持つひとびとをいきなり完璧な「よ そ者」に変えてしまう要素がそこに含まれているからだ。宗教の本質においては、インド ネシアの歴史が示すように、差異というものは共通性それ自体の中に含まれているものな のである。そしてその共通性は8月17日に祝われるのだ。その共通性を独立の遺産とし て祝うことを忘れないように。