「文章はロジカルに」(2017年11月16日)

ライター: 文司、ジャカルタ在住、アントン・M・ムリヨノ
ソース: 2004年12月18日付けコンパス紙 "Salah Pilih karena Salah Nalar"

われわれの言葉の中には、逆の関係にあるものを組み合わせて表現する対語がある。たと
えばsuami : isteri, guru : murid, membeli : menjualのように。アリがビダの夫なら、
ビダはアリの妻だ。チャヒヨがディマスの先生なら、ディマスはチャヒヨの生徒だ。エリ
がファルッから物を買えば、ファルッはエリに物を売るのである。

warisとpewarisという組み合わせもある。warisと呼ばれるひとは亡くなったひとの遺産
を受け継ぐ権利を持つひとを指している。遺産を受け継ぐ権利を持つ全員はahli warisと
呼ばれる。ここで使われているahliは、たとえばahli fisikaのようにある学問を深めた
ひとを指すのでなく、ある階層に属すひとびとを指している。ahli kitabとかahli sun-
nahというようなものがその例だ。先祖伝来の資産というような遺産を残すひとがpewaris
だ。インドネシアの国語教育が不十分なのか、それともある個人のインドネシア語習得が
不十分なのかわからないが、マスメディアにはこんな文章が出現する。

Pangeran Charles dari Inggris jadi pewaris takhta.
pewarisはかれの母であるエリザベス女王であり、チャールズはwarisあるいは一般によく
使われているahli warisであるはずなのだが。


動詞の接尾辞である-kanと-iの選択でも、間違いが頻繁に発生する。しばらく前から新聞
は、memenangi(競技の場)とmemenangkan(告訴の場)を使い分ける驚嘆すべき先駆者と
なった。われわれが競技の場でmemenangiすればわれわれが勝ったことであり、判事が原
告をmemenangkanすれば判事が原告を勝訴させたということだ。同様に、orang dihadiah-
kan でなくてorang dihadiahiと表現されるように、orang ditugasi であり、pekerjaan 
ditugaskan kepada ...とわれわれも述べなければならない。

なかなか矯正できないのがmengatasiとmembawahiの用法だ。もしわれわれがmengatasi 
masalahできたなら、われわれはその問題を克服したのであって、われわれはその問題の
上(atas)にいるようなものだ。われわれが指導者としてatasにいるのなら、われわれは
atasanと呼ばれる。今時奇妙なのは、membawahiという言葉がmengatasiと同義で使われて
いることだ。Bupati membawahi camat.という文はブパティがチャマッの上にいるという
解釈のようだ。

本当は、mengatasiが上にいるという意味であるように、membawahiというのは他のエンテ
ィティの下にいることを意味している。秩序だった文法法則を確立させるために、われわ
れはBupati membawahkan camat. Camat membawahi bupati dan menjadi bawahannya. と
述べるべきだ。そうしなければmembawahiはmengatasiと同じ意味になってしまう。そうな
ったら、mengataskanはどういう意味になるのか?接尾辞-kanが付いたら、その語は自分
あるいは他の何かがより高位もしくは優れていると見なすことを意味している。たとえば、
次の例文だ。
Kita sepatutnya mengataskan bahasa Indonesia di antara bahasa daerah kita.


正されるべき非論理性は、刑法典のある条項に違反(melanggar pasal...)した被告に関す
る報道にも見られる。刑法典の多くの条文はBarang siapa yang...で始まり、そのあと犯
罪行為や義務の怠慢が説明され、diancam dengan pidana...と続いていく。つまり被告は
その条文に背いたり違反したのでなく、反対にその条文に沿ったことあるいはそれに即し
たことを行ったから裁かれているのである。被告が犯したのは条文でなくて、条文が示し
ている法なのだ。だから正しい文章は次のようになるだろう。
...karena melanggar hukum seturut pasal...


ルカによる福音書第2章14の翻訳で、何十年にもわたって古くから見当違いの用法が放
置されてきた。そのインドネシア語訳は次のように記されている。

...Kemuliaan bagi Allah di tempat yang mahatinggi dan damai sejahtera di bumi di 
antara manusia yang berkenan kepadaNya.
ここでberkenanしているのは、本当はだれなのか?Allah Yang Mahakuasaなのかそれとも
manusia ciptaanNyaなのか?berkenanとはsenang, suka, rela, setujuの意味だ。そのイ
ンドネシア語訳と正しい解釈がなされたジャワ語やスンダ語訳を比べて見るがよい。

...tentrem rahayu anaa ing bumi, ing antarane manungsa kang dadi renaning pang-
galihe.

...di bumi sing aya kerta keur sakur manusa anu kumanah ku Allah.

つまり人間がアッラーにberkenanしているのでなく、アッラーが人間にberkenanしている
のである。人間がperkenanNyaを得、diperkenanNyaされたのだ。だからインドネシア語訳
はこうなるべきではないだろうか。
...dan damai sejahtera di bumi di antara manusia yang mendapat perkenan Allah.

願わくば、この正しい文章が今度のクリスマスの日に唱えられんことを。