「ボゴールのヒンドゥ教寺院(1)」(2017年12月27日)

ヒンドゥ教寺院はインドネシア語でプラ(pura)と言う。インドネシアの他の島々はイスラ
ム教だが、バリ島はヒンドゥ教だからプラはバリにだけある、と考えるレッテル思考人間
には、さまざまな宗教信徒が至る所に混在してコミュニティ生活を営んでいるというイン
ドネシアの実態が永遠に理解できないだろう。

宗教をベースに置かないコミュニティの在り方がインドネシア国民の日常生活の原理に置
かれており、社会秩序は宗教法や宗教上の慣習・価値観でなく、国法によって統べられて
いる。

もちろん歴史的には、特定宗教がある地域の住民にコミュニティ社会の秩序や生活作法を
与えたことを否定するべくもないが、インドネシア共和国独立に際して建国の父たちは宗
教を異にするすべての国民に信教の自由、居住地の自由、通行の自由を与えるための国家
形態を構築した。

だからそれぞれの地方部を見るなら、その歴史的な要因が深く影を落としているのを無視
できないけれど、各地方部からさまざまな文化を背負った人間が集まる大都市では建国の
父たちが理想とした姿が営まれているのが実情だ。ただ、大都市に集まった人間の中に、
その国是を正しく理解していない者が混じっているのも事実であり、それがこの国にとっ
ての弱点にもなっている。

要するにインドネシアは憲法が信教の自由を保証し、国家生活の基盤に有神論を据えてい
る世俗国家なのだ。これもまた世俗イコール無神論という理解を抱いている人間には理解
しがたい実態であるに違いない。インドネシアの知識人の中にも、インドネシアは宗教国
家でなく、同時に完璧な世俗国家でもないと評する声が見られるのだが、その意見の根拠
はやはり世俗イコール無神論なのだろうと思われる。

その意味でインドネシアは世界でも稀な特異社会なのであり、インドネシアを知ることに
よって、われわれの脳が落ち込んでしまった硬直的思考をほぐして柔軟でしなやかなもの
にすることができる。そのメリットを享受せずして、何のためにインドネシアに関わろう
とするのか、ということがきっと言えるに違いない。


ジャカルタにもプラはたくさんある。下のサイトで首都圏にある20カ所を超えるプラの
リストを見ることができる。

https://myjkt.com/2013/02/21/daftar-alamat-pura-di-jakarta-dan-sekitarnya-
tangerang-bekasi-banten/

プラパラヒヤガンアグンジャガッカルタ(Pura Parahyangan Agung Jagatkartta)は、ジャ
ゴラウィ自動車道ボゴール料金所から12キロほどの距離にある。ボゴール市から南西の
方角にある高峰、日本語グーグルが「サラーク山」と表記しているサラッ(Salak)山の方
角に向かう。ナンカ滝(Curug Nangka)を目印にすればよいだろう。[ 続く ]