「教える教師か、学ぶ教師か?」(2018年01月13日)

ライター: オボル財団編集者、ヤンワルディ
ソース: 2016年11月5日付けコンパス紙 "Cara Berpikir Penutur: Guru Pembe-
lajar"

基語に接辞がついて形成される語の使われ方は往々にして言語専門家の意見に合致してい
ない。たとえば「pembelajar」という語の意味を何人かのインドネシア語話者に尋ねたと
ころ、その語義を「pelajar」つまり「orang yang belajar」と解釈する傾向が見られた。

アントン・M・ムリヨノ氏のような言語専門家の意見はその解釈と正反対だ。アントン氏
の意見によれば、「pembelajar」の意味は「pengajar」つまり「yang membuat orang jadi 
belajar」なのだそうである。その論拠は、「membuat orang jadi belajar」を意味する動
詞「membelajarkan」から「pembelajar」の語が生じたということで、もちろんその形態論
思考は何もおかしくない。

インドネシア語話者はどうして「pembelajar」の語義を「orang yang belajar」と考えが
ちなのだろうか?ある言語上の現象を大勢の話者が示すことに、たまたまというのはあり
えない。それどころか、アニス・バスウェダン教育文化相時代に「guru pembelajar」と
いうスローガンが出現した。その語句が少々なじみにくいのはさておき、意図されたのは
「guru yang belajar」ということだ。つまり「pembelajar」の語義は大多数話者の解釈
と同じものになっている。

「pembelajar」の語義を「orang yang belajar」としているのは間違った常識であると一
部の言語学者やオブザーバーたちが考え始めてはいるものの、フアッ・A・ハミッ氏やM
・ウマル・ムスリム氏のような別の意見を述べる言語学者も出現した。かれらは大勢の話
者たちと同じように「siswa」あるいは「orang yang belajar」と解釈している。英語の
「learner」に対応していると言うのである。


インドネシア語話者たちに目を戻そう。かれらがある接辞で形成された単語の語義を探る
とき、かれらの思考は頭の中に持っているパターンの中の該当するものを見出そうとして
働く。「pembelajar」という接辞形成語について言うなら、「pe(N)-D」名詞というイン
ドネシア語できわめて有力なパターンの例がすぐにスポットライトを浴びることだろう。

このパターンのほとんどの語義は「orang/yang D」である。「pe(N)-D」名詞を見つけた
なら、話者はまず間違いなく「orang yang D」、さらに続いて「orang yang men-D」とい
う解釈に向かう。それどころか、「petani」や「pekebun」のような「pe-D」のケースで
すら、「orang yang ber-D」という同一パターンが使われる。そうしてから、たとえば
「petatar」や「pesuruh」のような「orang yang di-D」、あるいは「pemarah」や「pe-
mabuk」のような「orang yang suka/bersifat」といった、あまり多くない別のパターン
を思い出す。

つまり話者が語義を解釈するのに、頭の中にある「pe(N)-D」や「pe-D」名詞のパターン
を原文に当てはめ、その文の述語がDであると受け止めるのである。「pemalas」「pem-
berani」「pemakan」「periang」「pembicara」における「malas」「berani」「makan」
「riang」「bicara」のようにDがそのまま述語になりうるものである場合、話者は即座
に「pe(N)-」名詞の語義を「orang yang D」と解釈するのである。

話者が「pembelajar」という語に出会った時も、同じことが起こった。かれらはその語義
の解釈において、上述のパターンを適用して「orang yang D」つまり「orang yang bela-
jar」と解釈したのである。語形成方式に関連付けるような言語学者の複雑な思考方法を
インドネシア語話者は持っていない。言語学者のように動詞に関連付けて「pembelajar」
の語を眺めるようなことを、インドネシア語話者はしないのだ。かれらは頭の中にあるパ
ターンに従った思考方法を自発的本能的に適用するのである。

言語学的に分析するなら、「orang yang belajar」の語義を持つ「pembelajar」は「pe-
nyabar」「pemberani」「pemalas」など既存の語形成アナロジーから生まれたものであり、
「me(N)-D」動詞から派生したものではない。一部の言語学者が一般のインドネシア語話
者と異なる意見を持つのは、まるで構わない。だからと言って、世の中で生きている語義
が間違いであるということにはならない。インドネシア語話者の解釈傾向を支える別の見
地も存在している。ある接辞形成単語が受け入れられるというのは社会の問題なのであり、
文法の問題ではないのである。

訳注:
「pe(N)-D」の(N)とは、その後ろに置かれる基語の頭字に従って鼻音変化が起こるものを
その表示で代表させている。「-D」とは、基語(kata dasar)を意味している。