「ガウル(1)」(2018年01月17日)

自分の仲間内だけで通用する言葉を作り出し、外の社会と自分たちの世界という内と外の
領域を区別して内なる世界を特別扱いする排他性の機能を持たせることは、大昔から世界
の至る所で行われてきた。犯罪者グループを含む特殊な集団が隠語や符丁などと呼ばれる
言葉を頻繁に使用する習慣が日本にもあったのはその例のひとつだ。

同じように、若者たちが自分の仲間内だけで通用する言葉を作り出し、他人の耳を気にせ
ず会話を楽しむような振舞いは、時空を問わずに行われてきた。もちろんその自由度は、
その社会が持っている礼節規範という価値観の中でのものだから、世界中の人間が古代か
ら同じレベルで気随に行ってきたわけでもないだろうが・・・。

その点については、多重文化多重言語社会は単一文化単一言語社会にくらべて規範のレベ
ルがルーズだった可能性をわたしは憶測している。自分とは共通の言語で会話する知合い
の隣人知人たちが時に自分の理解できない言葉で別のひとびとと談笑するのを、単一言語
社会の人間が果たして平常の心的距離間で眺められるかどうか、というポイントに焦点を
当てて考えてみてはどうだろうか。単一言語社会の礼節規範をそのような風土に適用する
のは、しょせん無理な話になるのだから。

単一言語社会であれば、まっとうな市民が世間の中で隠語や符丁を多用するような、反社
会的集団の者たちの真似をするということに対して、社会的にも自主的にもブレーキがか
かるのは当然だったように思われる。一方、若者たちには、既存エスタブリッシュメント
体制を突き崩したがる精神性と相まって、そんな振舞いをして粋がる姿勢があるのを無視
することもできない。


インドネシアにはバハサガウル(bahasa gaul)という、普通のインドネシア語単語をデフ
ォルメして作られた標準外インドネシア語がある。たとえば普通の日本語単語や語句をデ
フォルメさせて新語を作り、世間一般に流行させるという行為とそれは大差ないわけだが、
インドネシアの場合は名詞・形容詞・動詞などをバハサガウルにして並べられたなら、い
ったい何語が話されているのかわけがわからなくなるという複雑さを持っている。

幸いにして文法は標準インドネシア語のものがそのまま使われているから、文型までデフ
ォルメされることはめったにないので、要はガウル単語を知っているかどうかの問題に落
ち着くとはいうものの、日本の場合でも新造流行語を知っているかどうかが問題の焦点に
なるから違いはあまりないとは言えるにせよ、インドネシアの方が複雑度は数段高いよう
な印象をわたしは抱いている。

今現在インドネシアでメジャーになっているバハサガウルは、インドネシア語ウィキによ
れば、1980年代ごろから、それまであったバハサプロケム(bahasa prokem)を次第に
押しのけて、ジャカルタを主体に定着して行ったと説明されている。

それはもちろん、ふたつの別体系のものが勢力を競いながら弱者を駆逐したということで
なく、先にあったバハサプロケムを吸収発展させながら、バハサガウルが造語原理を異な
る方向に進展させて行ったというのがその内容であり、そのふたつは一本の線でつながっ
ていると見ることもできる。

だが少なくとも、その間には時代の差と造語原理の違いが存在しており、同一のものが時
代と共に進化したという見方は妥当でないようだ。そしてそもそも、プロケムとガウルと
いう名称が意味する社会性のベースの違いが、その現象に対する国民社会の姿勢に大きい
違いを生んでいることを忘れてはなるまい。[ 続く ]